松本清張さんは、戦前から朝日新聞社の西部本社の広告部意匠係に勤務していた。昭和二十年代の新聞社の広告部といえば、ページ数がまだまだ少ない時代だったから、どちらかといえば地味な部署で、業務関係では販売部のほうが花形だった。高度経済成長の時代になって、新聞社の販売収入と広告収入は五分五分になり、景気がよくなると広告収入が販売収入を上回ったこともある。
そんな陽の当たらなかった頃の広告部の意匠係である。デザイナーとかアートディレクターが、大手を振って闊歩(かっぽ)する前の時代だ。大企業の広告は、東京や大阪から廻ってくる。九州版にしか載らない地元企業の商店や映画館などの、小さな広告のカットやレタリングを描いていた。広告原稿というよりは、「版下」といったほうがふさわしい。
大学を出た一部の人だけが、西部本社をいっときの腰掛けにして栄転していく。ある人の送別会の席でのことだ。送り出されていく幹部社員が、出席者の一人ひとりにお酌して回っていく。どこにでもある見慣れた光景だ。清張さんの前に来たその社員は、「あ、君はいいや……」と言って、酒を注(つ)ごうともせず、隣の人に移っていったという。当時の清張さんの立場がわかるではないか。
『半生の記』にも書いてある話だが、ご本人から直接聞くと迫力が違った。もう何十年も前のことなのに、昨日のことのように悔しそうな顔つきになるや私を睨みつけてから、視線を宙に逸らした。先輩に当たる女性社員から給料日前に金を借りたこともあったと辛そうに「告白」したこともあった。
しかし、新聞社の一員であることには変わりはない。だから編集局の安田満さんや秋吉茂さんたちと交流が生まれ、習作を朗読し、聴いてもらうこともできたのだ。シリーズ『日本の黒い霧』で扱った事件や出来事も「新聞社社員」として、リアル・タイムで体験したことになる。
冒頭にも書いたように、新聞記者は、戦争や災害、殺人事件でも、「面白がる」ところがある。「面白がらなくては」、それこそ新聞社社員失格となる。販売の仕事でも、広告原稿の制作に携わっていても同じである。噂程度であったとしても、各種の情報が普通の人よりは多く手に入る立場にあったであろうし、新聞記者のニュースに対する扱い方や表現方法のプラス・マイナス両面を評価、感得する立場にあったことは間違いない。
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