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公開座談会<br />角田光代×奥泉光×鵜飼哲夫「芥川賞、この選評がおもしろい」

公開座談会
角田光代×奥泉光×鵜飼哲夫「芥川賞、この選評がおもしろい」

第150回記念芥川賞&直木賞FESTIVAL


ジャンル : #小説

【第28回】豪華候補作から選ばれた五味康祐&松本清張

〈受賞作〉五味康祐『喪神』/松本清張『或る「小倉日記」伝』

〈候補作〉近藤啓太郎『黒南風』/長谷川四郎『ガラ・ブルセンツオワ』『鶴』/澤野久雄『夜の河』/小島信夫『小銃』/安岡章太郎『愛玩』/吉行淳之介『ある脱出』/武田繁太郎『生野銀山』/塙英夫『背教徒』 昭和28年1月22日、銓衡委員会

鵜飼 さて、次にご紹介したいのが、第28回です。受賞作は、五味康祐『喪神』と、松本清張『或る「小倉日記」伝』。のちに五味康祐は『柳生武芸帳』などの剣豪小説で大ベストセラー作家に、松本清張は『点と線』はじめ、社会派推理小説の巨匠となりました。純文学よりエンターテインメントの世界で活躍したお2人のダブル受賞です。

 この回の候補作はとても豪華です。のちに芥川賞を取る「第三の新人」の安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、近藤啓太郎。現在でも文庫が手に入る長谷川四郎。ものすごい実力者が揃い踏みです。

奥泉 しかも、長谷川四郎は『鶴』、小島信夫は『小銃』という傑作で候補になっている。今見ると、ものすごくハイレベルな回ですよね。それなのに、宇野浩二の選評はこうです。

〈一と通り読んでみて、今度も、(今度も、である、)該当作品ナシ、と思った、ナサケない、と思った。〉

 ただ、だからといって宇野浩二には見る目がない、と簡単には言えないと思う。選考する立場になってみると、評価というのは割れるものだなって思います。まさかこれが評価されるとは、と思うものが他の委員から高く評価されたり、皆が絶賛するだろうと思ったのに、推したのは自分だけだったり。

 だから、文学賞の選考っていうものはつくづく難しいんです。それぞれの作家の考え方、大げさにいえば思想、あるいは感覚でやるしかない。その感覚が、時間が経ったときにズレていたりするのを見ると、他人事じゃありません。ある時代の感覚の中に僕たちはいるので、作品の評価をリアルタイムで下していくのは、非常に困難なことだと思うんですね。

角田 ただ、新人賞の場合は、票が大きく割れた作品を書いた人のほうが、その後、どんどん伸びたり化けたりするような気がします。

鵜飼 『愛玩』は、安岡さんの短篇の最高傑作の一つといわれますが、選考会では否定的な論調でした。その中で川端康成が、〈安岡氏の「愛玩」は実は候補作中最も名作かもしれない〉と書いている。〈最も動かせない作品〉とも評価していて、さすがに見る人は見ているなあ、と感じますね。

奥泉 一方で川端康成は芥川賞なんて取らなくたっていいのだと、繰り返して選評に書いていて、まずは同感できる。

鵜飼 このときの選評では、坂口安吾もすごい。

〈「或る『小倉日記』伝」は、これまた文章甚だ老練、また正確で、静かでもある。一見平板の如くでありながら造型力逞しく底に奔放達意の自在さを秘めた文章力であって、小倉日記の追跡だからこのように静寂で感傷的だけれども、この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり……〉

 なんと、松本清張がミステリー作家になることを予言しているんです。この鋭さにはちょっと驚きました。

奥泉 確かに、そういう鋭さに驚くことはありますね。僕の作品に対する選評で一番びっくりしたのは、中上健次が『滝』について書いてくれた三島賞の選評です。「作者はファナティズムを信用していない。ファナティックなものに、酷薄な認識を持っている。それなのに、浪漫主義風な書き方をするのは、遠回りではないか」という内容で、なんて鋭い批評なのかと思いました。僕にとって一番意味があった選評です。

鵜飼 角田さんにとって、そういう選評はありましたか?

角田 ないですね。残念ですが。

奥泉 僕はもう1つあってね、「すばる文学賞」に応募したときの選考委員の座談会。『地の鳥天の魚群』で応募して受賞しなかったんだけど、中村真一郎さんがズバリのことを言っている。〈人生の切実なものから小説を書くというよりも、ただ小説というものを作ろうとしている〉という批評で、まったくそのとおりなんですよ。それを読んで「あ、僕はそういう作家なんだ」って気がついたくらい。しかも、〈内容たるや実にバナールなんだ〉という。バナール、という意味がわからなくて、辞書で調べたら、「凡庸な、平凡な、陳腐な」って書いてあった。

 その批評が今、小説家としての僕の指針になっています。小説というものを作ろうとしている、ということや、「バナールな」という言葉を、ずっと自分の中核に据えている。『バナールな現象』という小説まで書いたぐらい(笑)。それは非常に幸運なことだったのかもしれない、と今になって思いますね。

鵜飼 まさに選評が作品のタイトルを生んだわけですね。

 この回でもうひとつおもしろいのは、『或る「小倉日記」伝』が実は直木賞候補だったこと。当時は、芥川賞と直木賞の選考会は別々の日に行われていました。3日前の直木賞の選考会で、「これはむしろ芥川賞に向いてるんじゃないか」と言った委員がいて、芥川賞に廻されて受賞したんですね。

 直木賞が立野信之の『叛乱』に決まったので、清張さんは自分は落ちたと思っていた。数日後に「芥川賞です」って言われても信じられない。朝日新聞で広告の仕事をしていた清張さん、朝日の記者に聞けばいいのに、同じ社内で気が引けたのか、毎日新聞に電話して「友人の松本清張が芥川賞を取ったそうですが、本当ですか」と確かめたそうです。

角田 へぇ、そんなことがあったんですね。

 

純文学とエンターテインメントの違いとは?

奥泉光おくいずみひかる 1956年山形県生まれ。1993年『ノヴァーリスの引用』で野間文芸新人賞、94年『石の来歴』で芥川賞、2009年『神器 軍艦「橿原」殺人事件』で野間文芸賞を受賞。2012年より芥川賞選考委員。近畿大学国際人文科学研究所教授。最新作は『東京自叙伝』。いとうせいこう氏との文芸漫談、次回は尾崎紅葉『金色夜叉』。

鵜飼 というわけで、この回は後の剣豪小説作家と社会派ミステリー作家を生み出したわけですが、お2人は、純文学とエンターテインメントの違いについて、どう思われますか?

奥泉 これは作家になってから何万回も聞かれた質問ですが、なかなか答えが出せない。ただ、今回気づいたのは、いわゆる純文学という言い方が、意外と選評に出てこないことです。日本の純文学のイメージの中核を担ったのはやはり、私小説だと思うんですよ。晩年の志賀直哉から派生したようなタイプの、言葉を選びぬき磨きぬき、自分の身の周りの小さな世界をきっちり書いた短篇、というイメージ。

 でも、必ずしもそういう作品ばかりが芥川賞を取っているわけじゃなくて、むしろ、エンターテインメント性が高く、いわゆる純文学の殻を打ち破るような作品が取り続けている。あるいは実験的な作品がわりに取っている。

角田 私は正直、よくわからないんです。ただ、直木賞と芥川賞は長さが違うでしょう。芥川賞はだいたい原稿用紙100枚から200枚ぐらいだし、直木賞は本1冊分。上下2巻、ということもあるでしょう。その長さの定義で考えているので、書く立場としても、読む立場としても、これは純文学だとか、これは純文学ではないという考え方はしたことがないです。

奥泉 でも、意外と長いものが芥川賞の候補になったり、受賞したりしてますよね。文藝春秋という会社の体質を反映して、緩やかというか、けっこういいかげん(笑)。でも、それは悪いことではないと思います。

 笑ったのは、400枚のもの(注・第64回候補作、李恢成『伽倻子のために』)が候補になったとき、さすがに「短篇の賞なんじゃないのか、芥川賞は」と議論になった。「今後は250枚までにしましょうと申し合わせた」って書いてあるのに、そのあとで、長いものがまた候補になっている。申し合わせはどこに行っちゃったのか(笑)。新人の定義だって微妙ですよね。

鵜飼 何を新鮮と感じるのか、人によってずいぶん違いますしね。

奥泉 驚いたのは大江健三郎の受賞した回です。「もうこの人は新人じゃないので、芥川賞は要らないんじゃないか」と激しい議論があったんですが、大江さん、当時まだ23歳ですよ!

鵜飼 かと思えば、還暦過ぎた人が取ることもある(笑)。森敦さんとか、黒田夏子さんとか。

奥泉 議論自体は真面目にやってるんだけど、外枠はかなり緩やかで、エンターテインメントと純文学の区別も、それほど厳密に考えてはいないんですよね。そもそも、研究者ならともかく、小説を読み書く立場としては、その区別にさほど意味はない。

鵜飼 角田さんは、文芸誌に書かれるときと小説誌に書かれるときと、新聞に連載されるときで、なにか意識していることはありますか?

角田 私は奥泉さんと違って(笑)、非常に素直な性格なので、編集者の方の、こういう小説を書いてほしいっていうリクエストに従うんですね。そうすると、純文学の編集者の言うことと、エンターテインメントの編集者の言うことが違うので、それに従って書いているだけなんです。

奥泉 そうなんだ(笑)。うーん、なるほど。

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