書評

良質な戦争文学の結実

文: 雨宮 由希夫 (文芸評論家)

『水色の娼婦』 (西木正明 著)

 もう一人の主人公・吉川公夫は陸軍御用達の国策商社である昭和通商のベルリン支店員の肩書を持つが、予備役少佐で諜報活動に従事する軍人として登場する。

 エヴァと吉川の関係は偽装された愛の対象にある。顧客ではなくかけがえのない思い人として好意を寄せる吉川に、情報収集の道具のように扱われてエヴァは怒るが、吉川と同じ日本人の血が流れていることを大切に思っている。

 ベルリンの壁をテーマにし、タンゴの踊り手だった老女の数奇な運命を辿ることにより作家が描こうとしているものは、あの激動の時代の日本人の生き方であろう。

 作家は『わが心、南溟に消ゆ』のヒロイン周防咲子に対して、「ささやかな幸せを求めて懸命に生きた彼女の人生の軌跡と、むなしくなった夢の顛末を描いた」と贐(はなむけ)の言葉を送っている。エヴァの母は周防咲子同様、国家政策によって運命を方向付けられ、見えざる意思のために大日本帝国の「棄民」となり生涯を終えた女である。

 吉川公夫は『梟の朝』の光延東洋、『ウェルカム トゥ パールハーバー』の天城康介同様、「武人としてはかならずしも華やかな戦場とはいえない秘密戦の舞台で、祖国のために懸命に闘う」武人であった。作家は「いつの時代にも、名を残す人物の陰には、必ずそれを支えた人間がいる」(『梟の朝』あとがき)と彼らの生き方への共感をあらわにしている。「名を残す人物」とは、光延東洋にとっては山本五十六であるが、吉川にとっては小畑敏四郎中将であることが、物語のエンド近くであきらかになる。

 小畑は『夢顔さんによろしく』に「陸軍きってのロシア通で、後方要員を専門に養成する組織をつくることの必要性を親交のあった近衛文麿に説く人物」として登場する。小畑と吉川は日独伊三国同盟の締結時には体を張って阻止しようとし、英独休戦交渉と日米交渉をほぼ同時に立ち上げ、この戦争を勝ち抜こうとする英国の戦略の陰の仕掛け人、ワイズマン男爵(サマーセット・モームの母方の従弟、元イギリスMI6アメリカ支部長)の戦略に対しては、祖国の滅亡を回避し、光輝ある大日本帝国の存続を果たすべく、当時の日本軍部の宿痾だった視野狭窄を乗り越えて立ち向かう。

 主人公たちが生きた「狂瀾怒濤の時代」の空気を読者に伝えたい、という作家の思いが熱く伝わる。

 戦後68年の今年。戦前戦中の日本の責任を問う声が中国、韓国などの国から止むことはなかった。日本人はもちろんアジアの人々が実体験した戦争を語りつぐために、良質な戦争文学が読まれることは一つの有効な手立てである。国際性豊かで現代史の暗部、裏面まで分け入って真実なるものに近づこうとする西木作品は必ずやアジアの人々にも受け入れられると確信し、また切望する。

水色の娼婦
西木正明・著

定価:1785円(税込) 発売日:2013年09月07日

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