「アーベル ライデル」を読んで、いかにも北原亞以子さんらしいと思い直しているところである。
平成五年(一九九三)七月十五日、「恋忘れ草」で第一〇九回直木賞を受賞し、マスコミの応対やら授賞式やらの大狂乱の中で、ほぼひと月で書き上げた直木賞受賞第一作が「アーベル ライデル」(別册文藝春秋二〇五号・平成五年秋)だった。
昭和五年(一九三〇)の東京下町が舞台で、二十六歳上の椅子職人芳次郎に嫁したふみが主人公である。十七歳で後妻になった。先妻の息子洋一郎とは五歳しか違わず、道ならぬ恋心を抱いている。「イッヒ リーベ ディッヒ(私は君を愛す) アーベル ライデル(だが残念ながら)」ふみは芳次郎の妻なのだ――その女の狂おしい心の揺れをテーマに据えて戦前の職人一家を描いている。
北原さんの祖父は椅子銀の名で知られた名人で、好んで書く江戸市井ものの職人には多かれ少なかれ、祖父の姿が混じっていると言うけれども、普通の作家なら、直木賞受賞第一作の注文にはそれまで書いてきた得意の時代小説を書くはずである。
デビューの第一回新潮新人賞受賞作「ママは知らなかったのよ」は現代小説だといっても昭和四十四年のこと、それ以降は二十年のスランプを脱して泉鏡花賞を「深川澪通り木戸番小屋」で獲り、直木賞でいよいよ時代小説の売れっ子になった時だったのだ。
このとき北原さん五十五歳。小柄で可愛らしく、いつも穏やかな女性っぽいけれど、いい加減は許さない芯の強い一面はあった。もの静かな反骨心は旺盛といってもいい。小説現代新人賞佳作になった「粉雪舞う」で、「なにより常套的な時代小説に堕していない点を高く評価したい」(昭和四十四年五月、読売新聞「大衆文学時評」)と評された著者ならではの選択であり、挑戦だったと思えば納得できよう。
本作は発表舞台を別册文藝春秋からオール讀物に替えて、「異人さん」(平成六年二月号)で昭和八年に物語の年代を移し、「足音」(同六月号)で昭和十一年、「いのち栄えある」(同七月号)で昭和十四年、「十一月の花火」(同十月号)で昭和十七年と、三年刻みで東京下町の庶民が戦争に巻きこまれていく過程を追っていく。高階家の芳次郎、ふみ、洋一郎、桂子、ふみの父親で名人亥之(いの)、変亥之と呼ばれた鴻田亥之助、亥之助の弟弥太郎、その娘のゆう子、職人の益吉、太一、家具屋の主人平沢要たちが織りなす連作で、ボリュウム的にも一冊にまとまる量はあった。しかし、自伝的な色彩が強く、北原さんの中で、特別な思い入れがあったがゆえに何度も書き直しに挑んだが、刊行までに至らなかったのだろう。
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