描きたいもの。それは舞台となった小舞(おまい)藩の情景ではないだろうか。
本書は『火群のごとく』と同じく、小舞藩が舞台である。これは作者創作の架空の藩で、いわば藤沢周平の海坂藩のようなものだと思えばいい。
架空ではあるが、著者の中には、小舞藩の確固たる景色が存在している。急湍の多い槙野川と、夏には鵜飼の行われる豊かな柚香下(ゆかげ)川。柚香下川は桜の名所で、その堤は「盛りの季節には薄紅色の花雲となった」とある。掘割にかかる大根橋を渡れば繁華街だ。一方、中心地をはずれれば、そこには飢饉のときに打ち捨てられた廃村や、隣の藩へ続く峠道がある。著者の細やかな描写力で、読者の眼前にはその景色が奥行きを持って浮かび上がる。
特に、季節と自然の描写が実に巧い。匂いや肌触りなど、五感に訴える描写がここ一番で使われることに気づかれたい。
たとえば「女、ふたり」は春。藤次郎が初めてお江井に出会ったときの、むせかえるような桜の花びらとその香りがいつまでも残る。この桜は幸せの象徴だ。
それが「花散らせる風に」では梅の香になる。物語は葉村吉左衛門宅の庭にある紅梅・白梅の古木に始まり、ある人物の屋敷の庭にある梅の木の下で終わる。こちらは前作の桜から一転、むしろ寂しさの象徴――いや、寂しさの中の凛とした強さの象徴と言った方がいいだろう。
花の香りではなく、風の香りを描いたのが「風を待つ」だ。白南風(しろはえ)とともに帰ってくると約束した男を待つ珠枝。彼女のもとを訪れる、潮風の香りを持つ漁師の男。ラストシーンでは、珠枝は風に向かって懐剣を投げる。それはずっと待っていた〈風〉を斬る、という行為に他ならない。
順序は前後するが、「甚三郎始末記」にここで触れておく。これは季節ではなく、一日の時の流れを描いたと読んだ。馴染みの遊女を悲劇が襲った夜。筋を通そうとした夕暮れ。そして終幕の、ピンと張り詰めた夜明け。黄昏時にはすれ違った子どもがお化けと見間違えて泣いたというほどの醜男の、最後の場面はきらめく朝日の中なのだ。
五感に訴える、と書いた理由がおわかりいただけると思う。もちろん、自然あふれる風景は現代にもある。しかし、甚三郎が女を探す場面の一寸先すら見えないほどの闇は、飢饉に打ち捨てられた村は、石の下に眠る蛙は、部屋の中にまで漂う梅の香は――そしてそれらのものを常にそばにあるものとして認め慈しむ暮らしと、それを人の思いに重ねる手法は、時代小説だからこそ、映えるのだ。
もう一枝あれかし
発売日:2016年05月13日