では、もうひとつのポイント、描きたい人物とは何か。
表題作「もう一枝あれかし」には、菊、桔梗、竜胆(りんどう)などいろいろな花が登場する。ここでの花は〈散るもの〉の象徴だ。あさのあつこは、散る花に、散り急ぐ男たちを重ねて描いた。始末をつける男と、残される女だ。「もう一枝あれかし」にこんなセリフがある。
男はなぜこうも散り急ぐのか。
日出子と同じ呟きを紋十郎の位牌前で繰り返す。
旦那さま、あなたに生きる手立てはございませんでしたか。散るより他に手段はございませんでしたか。
男にとって「始末をつける」とは、この時代、命を賭けると同義だ。本書の物語は、「女、ふたり」だけは性別が逆転するが、他はどれも命を賭して始末をつける男を描いている。と同時に、その男にとって大事な女を描いている。
男が命を賭けて始末をつける、というのは自らの筋を通すことだ。その面だけ見ればとても潔い。だが、遺される者にとってはどうだろう。それは男の自己完結に過ぎない、とも言える。勝手に完結され、勝手に散り急がれた。自分は遺ってしまった。ではどうするか。そこがこの〈始末記〉の真のテーマではないだろうか。仇を討とうとする女、騙す女、騙されてやる女、祈る女――そして、生き続ける女。そんな男と女もまた、時代小説でしか描けないものだろう。本書は〈男の始末〉に翻弄されながらも自分の道を見据える〈女の始末記〉でもあるのだ。
表題作では、先ほどの引用のあと、物語の展開にもう一押しある。先ほど、「もう一枝あれかし」の花は〈散るもの〉の象徴と書いたが、ここでもうひとつ意味が浮かび上がる。
花は春になればまた芽を出し、葉を茂らせ、命をつないでゆく。花は、季節は、再生の象徴でもあるのだ。
四季の彩りが溢れる情景と、散り急ぐ男たち。そのそばにいる女たち。
『もう一枝あれかし』は、あさのあつこが、時代小説でなくては描けない、そんな情景と男女をしなやかに紡いだ、珠玉の作品集なのである。
もう一枝あれかし
発売日:2016年05月13日
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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