江戸を遠く離れた六万石の小国を舞台にした物語である。その小国は、高瀬舟を使った交易と川漁が盛んな小舞藩で、自然豊かな地だ。本書は、そこでのびのびと育つ少年たちの日々を描く青春時代小説である。
まず三人の少年が登場する。顔も体もいかつい上村源吾、長身で温和な山坂和次郎、そして主人公の新里林弥。同じ剣道場に通う幼なじみである。川が流れ、木々はざわめき、そういう自然とともにある暮らしのなかで、少年たちの牧歌的でありながら緊迫した日々が活写されていく。
まず目につくのは、全編を貫く自然の息吹だ。たとえば、こんな記述がある。
空は薄墨の色をしている。昨日も一昨日も下午あたりから雨になった。雨脚の弱い五月雨ではあっても、断続的にだらだらと降り続くとそれなりの量になるらしい。柚香下川の流れは普段より濁り、荒れていた。土色の水面を撫でるように燕が数羽、飛び交っている。早瀬の音が耳に響いてきた。雨に洗われたばかりの川辺の柳は、曇天の下でさえ翠色に淡く輝く。刃針に似た細長い葉が風に翻り、翠の光を撒き散らす。川土手の向こうに広がる田にも風になびく若緑の苗があって、光を弾いている。天も地も川も光に抱かれ、塗れる季節はもう間近だった。
あるいは、林弥たちが道場に向かうシーンでは次のような記述もある。
「味噌屋の角を曲がる。店先に樽を並べた味噌屋からは、いつも独特の良い香が漂っていた。その隣は狭い空地になっている。今はまだ地面が露(あらわ)だが、ほどなく旺盛に伸びる夏草に覆われてしまう。草いきれが鼻孔をくすぐる」
山肌を削って滑り落ちた巨岩が流れをせきとめて出来たとの謂われのある淵で、林弥たちが遊ぶシーンもここに並べておこう。潜った林弥が水面に顔を出し、地上のさまざまな音がぶつかってくる場面だ。
「瀬音、風音、蝉しぐれ、浅瀬で遊ぶ子どもたちの歓声、鳥のさえずり、竹林の葉擦れ。この世はなんと多様な音に満ちているのかと驚き、川水がその全てを封じて流れていることに、さらに驚いてしまう」
現代生活で私たちが失ってしまった自然の匂いが、ここには濃厚にある。自然豊かな小藩を舞台にして少年たちの友情と成長を描くという点で(しかも背景には大人たちの権力闘争があるという点で)、藤沢周平『蝉しぐれ』や、宮本昌孝『藩校早春賦』を想起するが、そういう先行する傑作群と肩を並べていることは素晴らしい。
もちろん、それらの先行する傑作群との違いもある。それは、もう一人の少年が登場することだ。樫井透馬。筆頭家老が出入りの職人の娘に手をつけて生ませた子で、家老の長男も次男も病弱なので後嗣候補の一人として江戸から国元に呼び寄せられてきた少年だ。
透馬が江戸にいたときの剣の先生が新里結之丞。林弥の兄である。幼い透馬が結之丞と出会う場面がいい。「そなたに剣を教えてやろう」と言われた透馬は、強くなりたいと願いのままを口にして、「強くなってどうする」と新里結之丞に尋ねられる。
「強くなれば……」
幼い透馬は自分の思いをうまく言葉に出来ない。それがもどかしい。答えはほろりと零れ出る。「好きな所に行ける」
「行きたい所があるのか」「あります」「どこだ」「熊屋」
熊屋とは、透馬の祖父が営む経師屋である。糊と木と紙の匂いのする熊屋には、母がいて、祖父がいる。
その少年が自然豊かな小舞藩にやってきたのは、剣の先生である結之丞が二年前、何者かに斬り殺されたからだ。しかも刀を抜かぬまま背後から斬りつけられていた。江戸からやってきた透馬は、先生がそんな死に方をするわけがなく、それを調べたいという。
もちろんその事情は林弥も変わらない。後ろ疵の死は武士の恥でもあり、その士道不覚悟と、家督を継いだ林弥が若年であることを理由に、家禄は三分の一を削られたのである。兄の死の真相を調べたい気持ちは、当然ながら林弥も強い。
この二人を繋ぐのは、強い怒りだ。
「おまえに教えねばならぬものはまだ、多々ある。これからだ、心しておけ」と兄に言われたことを林弥はまだ忘れない。道場の高弟として名を馳せていた十五歳年上の兄を、林弥は誰よりも尊敬していたから、その兄が「励めよ。おまえには才がある」と言ってくれたのは身震いするほど嬉しい。
その兄が「おまえに教えねばならぬものはまだ、多々ある」と言ったのである。「明日は非番だ。たっぷり稽古をつけてやろう」と言ったのである。これは約束にほかならない。しかし兄はその夜、帰らぬ人となる。兄にもう会うことは出来ないという悲しみの裏に、約束したではないか、という強い怒りが林弥にはある。
同様の悲しみと怒りは、透馬にもある。結之丞が江戸を発って国に帰るとき、「必ず、また会おう。それまで精進しておけ」と言われたことを透馬は忘れない。
つまり林弥も透馬も、結之丞にふたたび剣を教えてもらう約束をしていたのに、それが果たされなかった。その悲しみと怒りが、この物語を押し進めていく。その天賦の才をどちらが結之丞により認められていたのか、愛されていたのかというライバル心もある。しかしともに結之丞を強く尊敬していたという思いでこの二人は強く繋がっている。こうして二人の少年は、結之丞の死の謎を調べ始める。
まだまだ読みどころはある。兄嫁の七緒に寄せる思慕が全編に甘さを与えていることは見逃せないし、源吾が去っていく後ろ姿も印象深い。源吾は秋たけなわの光の中に出ていくのだが、光と一体になってその後ろ姿が溶け込んでいくシーンは美しい。
その静かな文体も、巧みな構成も、群を抜く造形も、そして鮮やかな描写も、すべてが素晴らしい。あさのあつこの傑作だ。