では、本書『もう一枝(いっし)あれかし』はどうか。
本書には五つの短編が収められているが、共通するテーマがある。それは〈始末記〉であるということだ。なんらかの事件の、あるいは思いの、始末をつける物語。そのすべてに恋がからむ。大切な人の存在がある。
ひとつずつ見ていこう。
「甚三郎始末記」は醜男の恋の物語だ。主人公の甚三郎がいかに醜男かを四ページにわたって微に入り細を穿って描くその筆には思わず吹き出した。すれ違った女の子が泣き出したくだりなど、おかしくてたまらない。だが読み進むうちに、この甚三郎がいかにいい男かが読者に伝わる。その甚三郎が、恋をする。
「女、ふたり」は商家の主人・藤次郎が主人公。格上の商家から一目惚れをした女性・江井を娶り、幸せになるはずだった。ところが次第にふたりはすれ違い始める。これは〈女の始末記〉だ。
「花散らせる風に」では、藩の重役・葉村が僻地の開墾を提案する。なぜそんな場所をわざわざ、という反対意見が出たが、そこには葉村のある思い出があった。
「風を待つ」の主人公は遊女の珠枝だ。武家奉公をしていたが、仇討ちの旅に出る男のために身を売った。その男を待ち続ける珠枝。三年後、帰ってきた男は……。
掉尾を飾る表題作「もう一枝あれかし」は、武家の妻の物語である。子のいない夫婦だが、仲睦まじく暮らしていた。しかし夫が務める勘定方で不正が発覚、夫の上役が責めを負って自刃してしまう。
一編一編が、いずれ劣らぬ傑作ばかりだ。「甚三郎始末記」の愚直、「女、ふたり」の後悔、「花散らせる風に」の悟り、「風を待つ」の一途(いちず)、「もう一枝あれかし」の覚悟。読みながら、ふとした一文が、場面が、じんわりと心に染み通っていく。読み終わって、しばらくその余韻に漂っていたくなる。まったく隙がない。いずれ劣らぬ、と書いたが、「花散らせる風に」と「もう一枝あれかし」は特に何度も読み返したくなる。巧い。実に巧い。
この巧さはどこから来ているか。それが前述した、なぜこれが時代小説として書かれたかにつながる。前述した論でいけば、本書もまた、描きたいものを、描きたい人物を、最も描ける舞台に乗せて描いたら、時代小説になったと言える。では本書での描きたいもの、描きたい人物とは何だったのか。
もう一枝あれかし
発売日:2016年05月13日
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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