本書の後半では、いよいよウィリアム少年が親友ふたりの助力を得て、実際に風車をつくり上げるところが語られる。まさにレヴィ=ストロースが言ったブリコラージュ――野生の思考――である。図書室でたまたま見つけた理科の本だけを頼りにゴミ捨て場を漁り、風車の部品をつくるための工具まで、ありあわせのものを利用して現出させる彼の創意工夫と不屈の独学精神には、ただただ脱帽というほかはない。加えて、「新しいものをつくることで、自分たちの暮らしをよりよくすることができる」という彼の確たる信念。「こんなモノいらない」と言いたくなるようなものがあふれる「先進国」の住人には、なんとまばゆい無垢の信念であることか。さらに、そんな信念に負けず劣らずきらきらと輝いているのが、ウィリアム少年の自然体の心やさしさだ。一度はウィリアム少年の発明品に感嘆しながらも、旱魃を彼の風車のせいにする村人の無知に対して、彼はそれも飢饉に対する恐怖の為(な)せる業だと思いやり深い理解を示す。それにそもそも風車の発明自体、マラウイの女性たちの家事労働を軽くしたいという思いから発したものだ。こうした心やさしさがあってこその彼の創意工夫である。そこが一攫千金を夢見る発明とも、激しい競争社会にあって、生き残りを懸けた企業の創意工夫とも根本的に異なるところだ。だからこそ、彼の成し遂げたことはマラウイだけにとどまらず、世界じゅうで高く評価されたのだろう。ただ感心されただけではなく、多くの人たちの心を打ったのだろう。