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平野啓一郎×中島岳志

平野啓一郎×中島岳志

「対談◎血盟団事件とは何者だったのか ――革命・三島由紀夫・近代化」文學界2013年11月号より

出典 : #文學界
ジャンル : #ノンフィクション

 

ルソーの思想との相似

中島 同感です。僕はそれを「ルソー的欲望問題」と呼んでいますが、これは小野先生の授業を聞き、スタロバンスキーを読んで考えたことなんです。

平野 『透明と障害』ですね。

中島 その通りです。スタロバンスキーは、ルソーのキーワードを「透明」と「障害」だとしました。ルソーは外観のコミュニケーションと自己の内面の分断に悩んだ人です。腹の中で「この野郎」と思っていてもニコニコしたり、あるいは物凄く悲しいのにヘラヘラしてみたり、内面の自己と外観の自己との間にはベールがある、隔たりがある。しかもそれは他者も同じである。ならば、他者からの疎外だけでなく、自己の中ですら自己が疎外されているという非常に大きな問題が生じる。例えば「高貴なる未開人」という言葉があるように、ルソーにとってはアフリカ人は未開だけれども高貴な人間になる。笑いたい時に大声で笑い、泣きたい時には大泣きする、自己のウチとソトの間に障害物のない人々が、彼にとっては高貴な人間に見えた。それなのになぜ、自分たち近代人だけが「個人」になってしまったのか。だからルソーは障害を取り除き、人々との透明な関係を構築したいという問題意識を持つわけです。

 そこから出て来る政治的概念が「一般意志」というもので、個々人を超えた皆の意志が一体化していく過程で、個人を昇華した集合的な一般意志が生まれてくる。これがデモクラシーだ、と言い始めるんです。彼はデモクラシーを作ったと同時にナチスにも援用されるような思想家でした。

 三島由紀夫や右翼が著したものを読んで気づくのは、その多くがルソーの愛読者だということ。ルソーの「一般意志」を天皇の「大御心」と一体化させるのが日本の透明な共同体であるという発想が右翼には非常に強い。これは初期からそうなんですね。西南戦争の従事者も、「一君万民」とルソーの「一般意志」を重ねて、涙を流してルソーを読みながらあの戦争を戦っていました。

 この感覚が僕は非常に重要だと思う。つまり右翼の、あるいは血盟団事件の構造にも言えることですが、彼らはよく天皇を太陽に譬え、我々国民は大地であると言います。その大地に「大御心」という名の日光が燦々と平等に降り注ぐ。これが「一君万民」の理想形だと言います。超越的な天皇を認めれば、全ての国民は一般化されるという概念です。このモデルには階級も隔たりもない。皆が心と心、「やまとこころ」でがり合っているような世界です。

 このモデルにおいて日本が国体的には成立しているのに、なぜこんなに苦しいのかというと、太陽であるところの「大御心」を疎外している雲のような奴らがいるからだと考える。これは「君側の奸」である。ゆえに君側の奸を刺しさえすれば、自ずと大御心が差してきて、近代が抱える個の問題が解消されたユートピア社会が現前する。この思想を極めてラディカルに実践したのが血盟団事件だと思います。その時の彼らの動機づけは、極めてナイーブな個人の問題に還元される。自己の煩悶と他者からの疎外の克服という問題です。それが一体何だったのかが僕の大きなテーマになっています。

 

平野 僕の文学的歩みにとって、三島由紀夫はかなり大きな存在でした。以前「『英霊の声』論」を書いたのですが、その中で、『英霊の声』は前半の二・二六事件の霊が語ることと、特攻隊の霊が語ることは、違う内容なんだと指摘しました。二・二六事件の霊が語るのは、血盟団事件を起こした人間が言っていることとまさに同じなんですね。

 中島さんが言った通りで、天皇と国民との透明な関係を邪魔する「君側の奸」がいる、と。それを排除するにあたっては天皇の意向が気にかかる。しかしそもそも天皇と我々には透明の関係が前提とされているので、我々が決起せんとするこの心情は、必ず天皇に理解される。なぜなら「私心」がないから、ある意味それは「一般意志」なんだというわけですね。天皇は現体制が腐敗した際に絶対的な「アンチ」として機能する存在だから、純粋な心による決起があった場合は、天皇である以上、必ずこの決起を認めなきゃいけない。なのにそうじゃなかったのは、「天皇として」義務を果たしていない。これが二・二六事件の将校の霊の考えです。

 一方の後半、特攻隊の霊たちは、政治的な次元でなく、完全に神秘主義的ですね。それも下降による、物質を介した死の神秘主義。敵の艦隊に激突する瞬間に、天皇と神秘的な合一感を得ると言うのですから。では彼らは一体何を怒っているのか。神だと信じていた天皇が、戦後にやっぱり人間でしたと言ったことに怒っている。逆説的ですが、死んでいった若者達のことを思うなら、「人間として」絶対に自分は神だと言い続けるべきだった、というわけです。

 三島は、この後、前者の議論を『文化防衛論』などを通じて発展させていますが、後者のイメージは最期の「天皇陛下万歳!」に維持されていたように思う。血盟団事件が面白いのは、日蓮宗に基づいて国体の中に天皇を位置づけ、それとの一体感、透明な関係というのを切望しつつ、もう一方で、そういうロジックに回収されない神秘主義、オカルトめいた部分もあるところ。作家として興味があるのはその辺です。

 日召が診ると病気が治るといった、いろんな逸話が彼をカリスマにしていく。こういったエピソードは、中島さん、どうご覧になりますか。

合理主義と神秘主義

中島 「病気治し」は面白いですよね。日召は地元に戻り、小さな庵に籠もって様々な神秘体験をしていく。例えば蛇と会話をしたり。あるとき突然、朝日を見て「日召!」と叫びだす。神からの意志を託されたと思うようになっていく。その時期から彼は「病気治し」が出来るようになります。その是非やそれが事実だったかどうかは分かりませんが、この頃は、神秘的な体験と「病気治し」という現象が一体化した時代ではあった。大本教もそういう側面が強かった。この時代、オカルティズムには実際的な意味もあって、単なる民衆信仰に止まらず、知識人までオカルトに傾倒していました。霊気とか座禅法とか、作家で言うと倉田百三がそうでした。こういった近代の裏側、理性の外部という問題が、健康問題を軸に広がった時代だったと言えるでしょう。そんな時期に井上日召が行った「病気治し」は、社会との結節点として大洗で爆発的に機能したということです。

平野 あらゆる価値観が相対化している現代、最後の最後に万人が否定しない絶対的な価値観が「健康」と「幸福」だ、と僕は思っています。この二つだけは誰も批判しないからこそ、危険なイオロギーになり得る。

 最初に、血盟団事件は暗いという話をしましたが、その理由は、この時代も健康がキーワードだったからですね。もともと古内にしても小沼にしても照沼にしても、皆病弱なんですね。彼らは生政治的な権力の管理から漏れてしまったような人たちで、富国強兵を目指した日本の近代化から落ちこぼれてしまった存在です。そんな彼らが隠秘(オカルト)的な力によって救済される。そこに反社会的な求心力が芽生えると見ると、現象としては捉えやすい。そこの部分は僕の小説家としての興味を惹きます。『血盟団事件』は、井上日召に社会変革のパトスだけでなく、神秘主義的、オカルト的カリスマ性があったからこそ、テロの実行にまで至ったという点で説得的でした。

中島 十九世紀の末頃から、仏教界は神智学の影響を受け始めます。例えば鈴木大拙然り。つまり近代日本の仏教も、世界的なひとつの思想潮流の中にある現象だと言えます。その中で、神道系のスピリチュアリズムとがっていき、大本とか「ひとのみち」といった、色んな教団が派生してきて人々を魅了していきます。

 国柱会の存在も非常に大きい。宮沢賢治も国柱会です。『血盟団事件』のあとがきで書きましたが、ちょうど血盟団事件が起きた時期と、彼が『グスコーブドリの伝記』を書いたのが同じ時期。両者のモチーフはほとんど同じです。世の中がこれだけ疲弊している。その現実に対して、自己犠牲によって世の中をユートピアへと変えていく。賢治はそれを童話に変奏した。火山に飛び込む一人の青年の自己犠牲によるイーハトーブの現前というテーマです。血盟団もほぼ同じです。一九三〇年代初頭ぐらいに、多くの人が共有していたこのスピリチュアリズムの隆盛が、僕からすれば極めて近未来的に見えました。つまり過去に遡行することによって未来の他者とがる。血盟団事件を書くことで、それが可能になるような意識がありました。

平野 テロを引き起こすのは内憂外患で、明治維新もそうでしたけど、血盟団の大洗グループは国際問題に全く関心がないですね。国内の貧困問題がひたすら彼らのベースになっている。対して帝大グループはどちらかといえば、ロンドン海軍軍縮条約に代表される国際状況への危機感でしょう? 大洗グループが国外にまるで関心を示さなかったのは、他者性の欠如という彼らの思考を象徴しています。

中島 その問題もあまり議論されていない部分です。血盟団の切迫感の根底には、ロンドン海軍軍縮条約があります。血盟団員の池袋や四元、あるいはこの時期の右翼の書いたものを読むと、「一九三五年危機説」を盛んに論じている。一九三〇年に結んだロンドン海軍軍縮条約は五年更新です。戦艦の比率において、日本にとっては締結時から不利な条約だった。五年後、これを改正するときには既に圧倒的な差をつけられることになる。構造的に日本がアメリカ、イギリスには敵わない状況が作られており、この三五年になって革命を起こしても、もう遅いという論理です。それまでに何とかしなければならない、新しい内閣を作り、世の中を変革しなければ間に合わないという、非常な切迫感がある。「今すぐやらなければ」と追い詰められていく彼らの切迫した時間認識が、国際状況の中で構造的に醸成されていたことをベースに考えないと、この求心性というのは見えてこないと思います。

平野 オウムの場合はちょっと違いますが、やっぱりハルマゲドンという終末論がテロを急がせました。社会の持続性を信頼できれば、長いスパンで解決策を考えられるわけですが、「いついつまでに」となると、日常性から逸脱するようなラディカルな手段を選ばざるを得なくなる。

 

(続きは文學界2013年11月号でお読みになれます)

(二〇一三年九月十九日収録)

文學界2013年11月号

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血盟団事件
中島岳志

定価:1,012円(税込)発売日:2016年05月10日

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