一つは小泉が午前と夕方の一日二回行う、記者団とのぶら下がりインタビューだ。それまでの政権では、首相が官邸や国会で歩く際に、記者団が取り巻き、質問する形式だった。十数人の記者が首相を取り囲むように動き、聞いた記者がほかの記者に教え、一斉に報道した。しかし、録音していないので、言った言わないという争いがしょっちゅう起こった。
当時、小泉の発言が政治を動かした。小泉が何を言ったかが政治の核となり、他の政治家が反応した。国民に向けて語ることによって、政党や官僚を動かしていく――。これが根幹となる小泉の政治手法だった。
小泉後の首相はそれをまねた。だが、安倍、福田康夫、麻生太郎、民主党政権下の鳩山由紀夫、菅直人は次々と失敗した。菅はついに、一一年三月一一日の東日本大震災を契機として、土日を除いて連日行っていたぶら下がりインタビューを中止した。野田佳彦も安倍晋三もこれを踏襲し、必要と思った時だけインタビューを行って発信している。
小泉の政治手法を可能にしたのは、小泉本人の言葉の力と選ばれ方による。小泉は「ワンフレーズ・ポリティクス」という言葉を生むほど、テレビが飛びつきたくなるような言葉をとっさに編み出す能力に長けていた。
「私の内閣の方針に反対する勢力はすべて抵抗勢力だ」(〇一年五月、国会で)
「痛みに耐えてよく頑張った。感動した。おめでとう」(〇一年五月、優勝した貴乃花に総理大臣杯授与で)
「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」(〇四年六月、自身の年金問題について国会で)
小泉の言葉は今でも私たちの記憶に残っている。テレビが切り取りやすいように、十秒以内だった。すべて、誰かが振り付けたわけではなく、本人のアドリブだった。こんなに印象に残る言葉を次々と発した首相はいなかった。
飯島が小泉の政治手法を可能にした要因として強調しているのは選ばれ方だ。
小泉が勝利した〇一年四月の自民党総裁選を振り返ってみよう。森喜朗が退陣した後の後継選びで、元首相・橋本龍太郎、麻生太郎、亀井静香、それに小泉が立候補した。総裁選が告示された一二日時点で、最有力候補は派閥の領袖で、首相も経験していた橋本だった。
この総裁選は、国会議員による本選挙の前に、各都道府県ごとの党員の意思を反映する「予備選」方式で行われた。都道府県票と呼ばれ、各三票割り振られ、計一四一票だった。一位となった候補が三票を総取りする方式を採用した県も多く、しかも各都道府県が本選挙を前に投票結果をばらばらに発表した。
すると、予想に反して「一位小泉」という結果発表が相次いだ。この流れに、国会議員が抗しきれなくなり、小泉支持に雪崩を打った。その結果、小泉二九八票、橋本一五五票、麻生三一票(亀井は本選辞退)──と小泉が圧勝した。
「小泉は一般党員が(もっと言えば国民が)自ら選んだ、いわば公選総裁だった。小泉は永田町での妥協や駆け引きなしに総裁になった」
飯島は誇らしげにこう書いている。確かに、この点がほかの政権との大きな違いだ。第二次安倍政権も「官邸主導」では同じであっても選ばれ方が違う。
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