潔い春風とは対照的に、夏雲は滑稽なほど思慮の浅い、優柔不断な男として描かれている。春風の魅力に夢中になりながら、冬日から手紙が来ると飛んで行く。春風に捨てられたあとも事実を受け入れられず、メソメソと泣いてばかり。男のくせに……とつい呆れてしまうが、こんなふうに恋に悩み、平気で泣けるのが平安貴族の男たちなのである。武家社会における「男らしさ」とは違って、当時の男たちは教養豊かで、気の利いた歌をさっと詠めて、立ち振る舞いも優雅でなければならなかった。男は仕事ができてナンボという単純な話でもない。万葉集にもやんごとなき殿方が身分の低い女にふられて泣いている歌や、恋の主導権を女に握られて翻弄される男たちの歌がいっぱい出てくる。そこに私はあの時代の心の豊かさを感じるのだ。
『とりかえばや物語』でも恋愛に対しては男より女のほうがずっと潔い。秋月に対する女東宮の態度もきっぱりとしたものだ。優しいお姉さまだと信じていた人に思いがけない振る舞いをされて、子供までできたのだから、運命の人と信じて絆を深めるのかと思っていると、物語の後半では気持ちはすっかり冷めてしまっている。離れている時間が長かったせいかもしれないが、ずいぶん思い切りがいい。
その秋月はというと、男にもどったとたん「女の人はとりどりに素敵だよ」などとうそぶきながら、夏雲も顔負けのプレーボーイぶりを発揮する。吉野の姉姫を妻に迎え、冬日のことも家と家が結んだ縁だからと邸に引き取り、宮中の女とも浮名を流す。これまでずっと女として生きてきたのに、こんなに急に男になりきれるものかしら、たまに女にもどりたいと思わないのかと、読んでいてちょっと不思議になる。もし、私が原作者だったら、満月の夜が近づくとざわざわ血が騒いで女装してみたくなる、といったエピソードを入れて物語の展開をさらにスリリングにしたかもしれない。
私が初めて『とりかえばや物語』と出会ったのは学校の図書室の常連だった中学時代のことである。スタンダードな文学作品や古典に始まり、戦時下の学生の手記を集めたノンフィクションなど、一日三冊までという制限いっぱいに本を借りては授業中に机の下でそっとページを開く。家に持ち帰って全部読み切ると、翌日また新たに三冊借りるという生活を送っていた。『とりかえばや物語』は一般の書架とは別に、カーテンで仕切られた図書室の奥の秘密めいた場所に置かれていた。そこには「中学生にはまだ早い」と大人の配慮が働いたらしい本が集められていたのである。
どうしよう、ドキドキ、いいや、読んじゃえと手に取ってみたら……、性的な実感がまだなかったせいか、たいしたことないじゃない、なんでそんなに心配するんだろうと拍子抜けした。田辺さんによると戦前は禁書に近い扱いを受けたようだが、大人が取り越し苦労をしなくても、子供は案外健全に本を読んでいるものである。
プロの漫画家になっていちばん嬉しかったのは、自分のお金で好きな本が買えるようになったことだ。中学生のころからそんな生活を続けたせいか、本を読むスピードがとても速く、この世に出る本はすべて読みつくす勢いで読書に没頭してきた。田辺聖子さんの作品は『姥ざかり』から始まる姥シリーズをはじめ、ユーモアあふれる現代ものが大好きだった。『源氏物語』の現代語訳を読んだときは、これこれ、私はこういうのを待っていたのだ、と思った。古事記のなかのほんの短い説話も田辺さんの手にかかれば『隼別王子の叛乱』というため息が出るほどロマンチックな作品になる。
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