司馬遼太郎に京都を論じた「“好いても惚れぬ”権力の貸座敷」という文章がある。日本各地を訪ねてその風土を探った『歴史を紀行する』(文春文庫)の一章だ。
司馬は「古来、京は、権力争奪の選手たちの貸座敷である」と書く。源平争乱の頃には木曾義仲が京にのぼって政権を打ち立てたが、兵どもが乱暴の限りを尽くして天下の信を失い、没落した。源義経に率いられた頼朝軍は軍紀が厳粛でそんなことはなかった。織田信長は京が世論形成の場であることを知っていて、市民に迷惑をかけないようにした。
京は天下をめざす者たちのグラウンドだった。京に暮らす者たちは、プレーヤーたちを見守り、吟味して、評価をする。人気があったのは、安土桃山期の豊臣秀吉と幕末の長州だという。
司馬は「京おんなは好いても惚れぬ」と大阪の言葉を紹介している。座敷は貸すが、プレーヤーと一緒に命がけで権力をめざすことはあまりしない(もちろん、桂小五郎に尽くした幾松のような例もあるのだが)という意味でもあるのだろう。時の権力に距離を置きながら、思慮深くあろうとするのが、京都の感覚らしい。
このシリーズに登場する京都人たちも、貸座敷で暮らしながら、権力争いをする者たちを見守る人々だ。覇権争いが今後の日本の行方を決めることは予感しているが、そこに積極的に関わろうとする人は多くない。京の地をプレーヤーたちに貸して、その争いが自分たちに被害をもたらすことを心配しながら、眺めている。
都の人々は野卑で金払いの悪い者を嫌う。その筆頭は狼藉を働きがちな者たちだろうか。中でも、厚顔で横暴な新撰組の芹沢鴨はその代表だろう。一方で、長州の志士たちは共感を呼んでいるようだ。この連作でも新撰組よりは、紳士的に描かれているだろうか。
この後、新撰組は激しい内ゲバを繰り返して、結束を固めていくことを私たちは知っている。芹沢も、近藤勇や土方歳三らに粛清される運命をたどるのだ。
我らが真之介とゆずも、貸座敷の光景を見守る人々だ。長州には反感を持っていない。芹沢には嫌悪感を抱いている。しかし、それを表に出すわけにはいかない。
新撰組が店に訪ねてきたら、お茶の接待ぐらいはする。しかし、乱暴なことを言われても、毅然としている。無理難題をふっかけられても、知的にいなす真之介の態度。横暴な要求に対する、ゆずの芯の強い対応。これが京都で暮らす人々の魅力だろう。
貸座敷には、洗練されたルールがある。それをわきまえないと失格する。結局は、そんなプレーヤーは自滅するのだ。これが都の掟だ。このシリーズでは、そこのところをじっくりと味わえる。京とは怖いところだと改めて思う。
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