幕末の京が舞台になっているのとともに、この連作を大きく性格づけているのは、主人公夫婦が古道具店を経営していることだ。
特に茶道具が物語の中心に据えられていることが多い。ここで茶の湯(茶道)というものが、戦国期以降、政治にどんな役割を果たしてきたかを振り返るのは、意味のあることだろう。
織田信長以降、茶の湯は大いに政治に利用された。信長が茶道具を集めたのはよく知られている。名物を功績のあった者への褒賞にしたり、茶会をする資格を特定の家臣に与えたりして、軍団運営に役立てた。
豊臣秀吉は千利休を茶頭にし、大規模な茶会を何度か催した。茶の湯は権力を誇示するイベントになり、茶室は密談の場に使われることもあった。
この連作に描かれているのは、こういったドラマが繰り広げられた数百年後のことになる。値打ちのある茶道具とは、かつての権力闘争の名残りだったり、天下人に愛された夢の跡だったりするのだ。
ここにも、権力が姿を見せる。いい道具は歴史の証人だ。それを目利きする古道具商とは、名品の向こうに権力を凝視する職業だ。それは、貸座敷を見守る京都人の姿勢にも、通じていないだろうか。どこかで、距離を置いて時代の流れを見つめる態度がありはしないだろうか。
真之介は精進よろしく道具を鑑定する能力を高めている。子供のころから名品を見続けて鑑識眼に優れた妻のゆずに、この努力家はほとんど追いつきかけている印象を受けるのだが、どうだろう。
二人がかわす芸術論も本書の読みどころの一つだ。たとえば、ある樂焼の黒茶碗をめぐる会話。いい茶碗に違いない。千利休の孫、宗旦の箱書きもある。しかし、長次郎(樂焼の創始者)の作としては、少し足りないところがある。何が足りないのか、言葉にするのは難しい。
(真之介)「なんや、たたずまいがちょっと違うとしかいいようがない。なんや姿に落ち着きがない気がするな」
(ゆず)「ほんまにねぇ。使うてると、ちょっと心がざわざわしてくるというか……。銅屋さんは、楽しなるとおっしゃってたわね」
芸術作品の美しさの内実を言葉で説明するのは難しい。極言すれば、それを見てもらうしかない。しかし、夫婦は店の者たちに何とか、感覚を養ってもらおうと言葉を尽くす。そこのところが、とても面白い。言葉にしにくいものこそ、人生にとって大切なものだからだ。茶器の話をしながら、もっと深遠な世界を解説しているように聞こえてくる。
それにしても、愛すべき夫婦である。古道具の名店の娘、ゆず。その奉公人だった真之介。駆け落ちをして結ばれた二人は、助け合いながら、激動の日々を生きている。
一方に血なまぐさい世情があり、他方に夫婦の温かい情愛がある。そこに現代に向けた山本の思いがあるように感じるのは私だけではないだろう。
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。