ある年代から上の層に「南極1号って知っていますか」と聞けば「ははーん」と微妙な反応が返ってくるに違いない。そう、「南極越冬観測隊が一年間極地で暮らすにあたり、持参したダッチワイフの名前」であり、ダッチワイフという言葉から最初に想起される固有名詞といっていいだろう。
高月靖氏は、そのダッチワイフに代表される「特殊用途愛玩人形」の歴史を、江戸時代から最新の風俗事情まで綿密に取材するとともに、開発者の苦労を丁寧に掘り起こした。タイトルこそ風俗本のようだけれど、中身はきわめて真面目なノンフィクションである。
「僕はメジャーな世界より、ニッチ好きな人に関心があるので、ダッチワイフのコレクターというのはいったいどういう人なんだろうかという興味から入ったんです。他人に話しにくい趣味ですから、最初はすごくオタクな人達の集まりなんだろうと思っていたんですが、会ってみるとごく普通な人ばかりでした。ただ、普通だけれど、心の奥に孤独なところを抱えている人達でもあるところが余計面白いんです」
ダッチワイフといえば、口と下半身に穴が開いているビニールを膨らました人形を想像するかもしれない。もちろん、そういう安っぽい製品も市販されているが、いまの主流は「ラブドール」と呼ばれる等身大の精巧な人形だ。
顔の表情も豊かだし、素材には柔らかいシリコンが使われているから、肌触りもかなりリアル。値段は六十万円前後、重さも三十キロ前後するが、オーダーメイドで顔や髪のスタイルから肌や乳首、マニキュアの色まで選べるものもあるから、自分だけのダッチワイフを作ることが出来る。
日本製ダッチワイフの特徴はなんといっても少女的で愛らしいこと。欧米のものはセクシー、グラマー系が主流だが、日本のファンはリアル過ぎるものは敬遠するらしい。
「初期のダッチワイフはそれこそビニールに空気を入れて使う幼稚なものでしたが、七〇年代後半にウレタンやソフトビニールを部分的に使い、使い勝手がよくなった。九〇年代になってからは専属の造型師が原型を作ったソフトビニール製の『アリス』が大ヒット。二〇〇〇年代に入って現在のようなシリコン製の精巧なドールが次々に出てきたんですが、同時にLEVEL-Dや4woodsなど新しいメーカーが参入しました。そうした会社の経営者はみんな四十代で、オタクブーム第一世代ですから、実用のためだけではなく、顔の表情や材質に関してとても凝っていった。その結果、ダッチワイフの造型力が飛躍的にアップしたんですよ。僕自身、学生時代はデザインを専攻していたので、顔の表情や素材に関する苦労話は、取材していてとても面白かったですね」
実際、ここ数年に発売されたダッチワイフは、どれも表情が可愛らしく、かといってリアル過ぎないので淫靡(いんび)な感じもしない。そのため、実用的な目的で買うより、人形そのものに魅力を感じる「ドーラー」と呼ばれるコレクターも出現している。本書にも出てくるTa-boさんは百体以上を所有し、同居している。
ただ、実用性に関しては、まだまだ乗り越えなければならないハードルがたくさんあるという。たとえばダッチワイフは股関節の開脚具合が勝負だが、拡げ過ぎるとシリコンが裂けてしまう。股間に穴をふたつ空けること、口への挿入を可能にすることも強度の問題で困難がつきまとうらしい。
「最大の問題は、使用後。使っているときは気持ちいいけれど、そのあと風呂場できれいに掃除してやらなくてはならないのが面倒だと皆さんいいますね。三十キロ前後あるわけですから、運ぶだけでも大変です。
人間関係的なトラブルも少なくない。このあいだも、息子夫婦と同居することになった男性が捨て場所に困って、山の中に置きざりにしたところ、発見した人から死体と間違えられて大騒ぎになった事件がありました。人形が可愛くなったからといって、愛好家はまだまだ隠れた存在ですから」
そう語る高月さんだが、執筆をきっかけに活動領域が広がり、六月には香港大学で日本の風俗文化について報告した。
「現在はロリコンの青年たちの日常生活を取材中で、九月には出版される予定です(バジリコ刊)。これからもニッチな世界を追いかけていきたいと思っています」
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