本書は二○○一年に料理王国社から発刊された『糖尿病S氏の豊かな食卓』を再編集し、文庫化したものである。十五年目にして文藝春秋の文庫局からお声が掛かり、思いがけず復活することになった。
「糖尿病S氏」とは、本書の語り手、坂本素行さんのことだ。一人称の聞き書きなので『糖尿病の私の豊かな食卓』としたほうがよかったかもしれないが、語呂が悪いばかりでなく、「私って誰だ?」という疑問も生じかねなかった。そこで、安部公房の「S・カルマ氏の犯罪」と山口瞳の『江分利満氏の優雅な生活』を足して二で割ったようなタイトルにしたのである。
まず明言しておきたいのは、坂本素行さんは本書の主人公である前に、当代一流の陶芸家であるということだ。“当代”とは“いまの日本で”という意味だが、六○~八○年代の八木一夫や加守田章二のころまで遡ったとしても、作品のクオリティにおいてベスト一○○に入る作家だと筆者は思っている。それは坂本さんの個展でじかにモノに触れれば、一瞬にして納得するだろう。
一流の作家でありながら無名に近いのは、そもそも現代陶芸に興味を持っている人が少ないことが最大の理由だ。さらには、美術工芸のいかなる団体にも属しておらず、従って“賞”とは無縁であり、茶道などともつながっていないこともある。工芸の世界では当たり前の師弟関係すら持たない。
日産自動車でカーデザインの仕事をしていたが、高麗青磁に魅せられて独学で陶芸を始めたのが運の尽き。若くして会社勤めを辞め、陶芸家になったという変人なのである。
私は二十三年前に初めて坂本さんの器と出合い、以来、一ファンとして個展に通ってきた。といっても年に一回か二回のことであり、その淡い親交のなかから本書は生まれた。糖尿病になったことを十八年前の個展会場で知り、「丹念な暮らし」と呼ぶところの生活改善にハマっていることを十七年前の個展会場で知ったのである。
当時「料理王国」(料理王国社発行)という月刊誌で、ある料理人の聞き書きを連載していた私は、やはり聞き書きで坂本さんのユニークな暮らしぶりを描きたいと思い、副編集長にダメ元で打診してみた。世間的には無名の陶芸家の食生活。しかも糖尿病。こんな地味な企画を門前払いにしそうもなかったのは、私の数少ないクライアントのなかでは、その人しかいなかったのである。ついでながら、現在、料理王国社は存在しない。「料理王国」という雑誌は存在するが、発行母体やスタッフは変わり、誌名だけが継承されている。
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