「料理王国」での連載は、二○○○年六月号~十一月号の短期間で終え、翌年、大幅に加筆して『糖尿病S氏の豊かな食卓』を上梓した。もとより単行本化することを前提にした連載だった。
驚いたのは、連載開始の一ヵ月後か二ヵ月後に「週刊文春」から坂本さんに取材依頼があったことである。そして、「嘘みたいな本当の話」というワイド特集で《スーパーの食材でも「おいしい糖尿病食」は作れる》という記事になった。さらにその数ヵ月後には、ビデオジャーナリストがやって来て、坂本家の日常を撮影し、三十分間のドキュメンタリーを作り上げた。TBSで深夜に放映され、「家で飯を作らずに何をしたいのか?」というS氏の名言が電波に乗ったが、それもやはり単行本になる前の話である。じつのところ「糖尿病」あるいは「生活改善」は、現代においては地味でもなんでもなく、えらくホットなテーマだったのだ。
とはいえ、『糖尿病S氏の豊かな食卓』は、糖尿病疾患者をメインの読者に想定してはいない。つまり、ストレートなハウツー本としては書いていない。料理レシピも“簡単クッキング”ではなく、むしろその対極的な内容で、世間が求める時短マニュアルにはなっていないのである。一品ごとに熱量を表記しているが、それは純粋に数字を表記しただけ。必ずしも低カロリーではないので、S氏のレシピ通りに作って食べても、高血糖対策になったり、ダイエット効果があったりするわけではない。
しかし、こうも言える。S氏の暮らしぶりに倣えば、生活習慣から糖尿病を発症することはなく、メタボリックシンドロームに陥ることもない。それどころか、日常生活における思考停止状態から脱することができ、個人の主体性を奪還することができる。自ら考え、自ら作ることの効用がいかに計り知れないものか、毎日の暮らしで実感することができるだろう。 もちろん、本書をどう読もうと読者の自由ではあるけれども。
「糖尿病S氏」は、この十五年間にポツリポツリと複数の雑誌に取り上げられた。たった一冊の本しか出していないのに、長年にわたって坂本さんの暮らしが紹介される現象は、不思議といえば不思議である。なぜか埋み火のようにしぶとく消えずにいる感じだ。そして今回また、文庫化という新たな息が吹き込まれることになった。
第1章から第3章は、ほぼオリジナルのまま掲載し、終章だけは新原稿と差し替え、第4章および第5章とした。第4章は「料理王国」(二○○四年十月号)の特集「男のレシピ」に掲載された記事を加筆・修正したもの。第5章は、坂本さんの近況を伝えるべく、今回新たに書き起こした。前述のように本書の主体は聞き書きだが、第4章と第5章は通常の記事である。また、本書の重要な要素である料理レシピは、坂本さんが自ら元原稿を起こした。
料理画はすべて坂本さんの手による。じつは十五年前の原画が行方不明でいささかあわてたのだが、二○一六年のスキャン技術が救ってくれた。いずれも陶芸家坂本素行の美意識にあふれたカットだ。
二○一六年夏
由良直也
(「文庫版のためのまえがき」より)
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