長谷川町子という名前を知らない日本人はあまりいないだろう。たとえば私は、物心がついたころにはもうその名前を(文字としてだけだけれども)知っていた。母の本棚に四コマ漫画の「サザエさん」が何冊かあったからだ。その後すこしたって通うことになった歯医者さんの待合室には全巻揃っていた。「いじわるばあさん」も。そしてまたさらにその後、今度は自分でそれらを買い揃えた。あの漫画は表紙の色がきれいで、薄いピンクのとか濃いピンクのとか、藤色のとか黄色のとか、表紙の色によってどのエピソードの入った巻か記憶していた。独特の、ポキポキした文字でそのすべてに記された、長谷川町子という名前と共に。
漫画を読んだことのない、私より若い世代の人たちも、日曜日の夜にいまも放映されている、テレビの「サザエさん」を通してその名前を親しく記憶しているはずだ。たぶん、かなり幼い人たちまで。そのくらい長谷川町子さんは有名で、こんなふうにさんづけして書くことが、奇妙で不自然に感じられるほどだ(ヘミングウェイとかスカーレット・オハラとか、紫式部とか聖徳太子とか、名前がすでにある種のイメージを人々の心に呼び醒す場合、さんづけはふさわしくない気がしてしまう)。けれども、長谷川町子という女性が一体どういう人だったのかは、この本を読むまで全く知らなかった。考えてみると不思議なことだ。これだけ有名であり続けた人なのだから、インタビューとかポートレートとか、もっと目にしていてもよさそうなものなのに。
人見知りの激しい人だったらしい。おもてにでることを嫌った人でもあったらしい。そして、では、おもてではない場所ではどうだったかというと――。それがこの本に書いてあることで、おもてではない場所、というのが大切な点だ。人はみんな、おもてではない場所に生息するものだから。
とんでもなく鮮烈な人、というのが私の受けた印象で、その鮮烈さというのは活きのよさと慎重さの、子供っぽさと知性の、恬淡(てんたん)と愛情の深さの、驚くべきバランスというか、ユニークで妥協のない共存から生れるみずみずしさであるように見える。その魅力がとても具体的に、目に見えるように描かれている。子供のころのいたずらの派手さ、家庭内での物言いの率直さ、世間に惑わされない聡明さと頑固さ、内向的だけれど奥の深い自由さ、そしてたぶん、そこにひそむある種の潔癖さ。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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