書評

英国の“激しい”現場を見て、〈報道哲学〉を考える

文: 澤 康臣 (共同通信記者)

『英国式事件報道 なぜ実名にこだわるのか』 (澤康臣 著)

  イギリスでは日本と違って宅配は一般的ではなく、新聞はニュースエージェント(新聞店)に買いに行く。ページ数は新聞によっては七〇ページ以上、週末版ともなるといくつもの別冊や付録のDVDまでつくから結構な厚みで、六紙も買えば両手で抱えて帰ることになる。行きつけはパキスタン出身のマンシャさん兄弟が小さな通りで営む「レジャー・プレジャー新聞店」だった。毎日たくさんの新聞を買い込む私はすっかり上得意である。配達してあげようかと言われたこともあるのだが、断って通って買っていた。狭い店にあふれる新聞を見比べるのが楽しい。調査が目的だから毎日買うべき新聞は決まっているのだが、「特ダネ」などと一面に銘打っているものがあると普段は買わない新聞にまで手を伸ばし、週末には週刊の地元紙オックスフォード・タイムズまでもつい追加で買ってしまう。

  英国式事件報道の世界は目くるめくものだった。

  ひとたび殺人事件が起きれば被害者の人柄や生活を描いた長い物語(ストーリー)が掲載される。容疑者が逮捕されると本人ばかりか家族や恋人のことまで記事に登場することもある。いかなる立場の人であれ実名表記は当たり前。どうかと思うような大きさの顔写真を載せてみたり、身分を偽っての取材、秘密録音、隠し撮りもある。「下品」と言われる大衆紙のことではない。天下の高級紙タイムズやガーディアンが、である。朝、新聞を広げて「ちょっとどうなんだろう、これ……」とつぶやいたことは一度や二度ではない。

  兄妹が遺産をめぐりドロドロに争った裁判を細大漏らさず伝え、亡くなった親の愛人の名前まで詳報したガーディアンの記事。ひどいレイプ被害をうけ、精神的なダメージを抱えて懸命に生きながらもついに鉄道自殺をしてしまった少女の物語を彼女の大きな写真とともに載せたインディペンデント。自殺と言えば、著名な法律事務所に勤める弁護士の過労自殺を、弁護士の父へのインタビューとともに詳しく報じたタイムズの記事もあった。後にタイムズ編集陣の一人に聞くと、法律事務所からタイムズ編集部に抗議があったというが、タイムズにしてみれば「それが何か?」だそうだ。抗議する人はいるだろう、でも事実でしょ、というのが彼らの姿勢である。

  真冬に起きた売春婦連続殺害事件はその最たるものだった。五人の若い女性が次々に殺害され、全裸で発見されたのである。イギリス中のメディアが、被害者、遺族、友人、近隣住民、売春業、ドラッグ、過去の類似事件……あらゆる題材を取り上げて大騒ぎを続けた。容疑者が捕まればそのたびにまた盛り上がる。日本の記者には刺激が強すぎる。それに比べれば日本の事件報道は間違いなく抑制が利いている。

英国式事件報道
澤 康臣・著

定価:1800円(税込) 発売日:2010年09月29日

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