聖書なしに世界は理解できない
律法を守ることが聖書の最大の眼目であることを考えれば、必然的に、「神との契約」という難問に入ってゆかざるをえない。誤解をおそれずに言えば、聖書とは、神と人間が取り交わした「契約書」なのである。そして、その契約を絶対に守ると宣言したのが律法である。しかもこの契約は完全な上下契約で、日本人が漠然とイメージしているような契約概念とは隔絶している。商取り引きであろうと結婚という形式であろうと、彼らには、対人契約というものはありえない。すべては神との契約があって、初めて成り立っているのである。私たちは、旧約を受け継いだ新約ヨーロッパの世界の契約概念も、その延長の上にあることを憶えておくべきであろう。宣誓という行為も、絶対者がなければ、意味をなさないのである。
聖書はまた、歴史という意識を人間に与えた書物でもあった。歴史主義は聖書から生まれた、と言っても、過言ではない。
そうした世界観の蓄積によって形成されたヨーロッパ世界では、日常的に聖書を読まなくとも、遥か昔からの聖書の言葉がコード化され、意識の下に深く沁み込んでいる。たとえばイタリアではいまも、聖書を学んでいなければ、政治や法律はもとより、医学を学ぶにも不自由なカリキュラムになっているという。
聖書は、それを読むものに、必ず聖書で答えてくれる。それが、私物厳禁の戦場にスピノザの『エチカ』を密かにしのばせていった22歳の山本氏の確信であったと思う。かつて、山本氏の凄まじい戦場体験に圧倒された私は、「戦場にも神はいましたか」と、思わず訊ねてしまったことがあった。そのとき山本氏は、正面から私を見て、「いました」と、静かに答えられた。
『聖書の常識』は、文明の衝突がいまほど現実味を帯びて語られていなかった33年前の著作である。
聖書の知識がなければ世界を理解することは不可能であろう、と考えた山本七平氏が亡くなってから、早くも22年の歳月が過ぎようとしている。
もし日本人の聖書理解が、この33年間に少しも変わっていないのだとしたら、この本は、当時よりもさらなる重要性をもって、いま私たちの前に置かれているのだと思う。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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