「藤巻さんの道」
〈僕〉が贈った写真集を見て、最も荒んだ一枚をいちばん気に入ったと言う同僚女性の藤巻さん。普段は笑顔を絶やさない彼女だが、実は陰があるのだろうか? 興味をそそられた〈僕〉はいつしか彼女に恋をしている。終盤に意外な真実が明かされてニヤリとするが、そこに続く最後の一言にはぐっとくる。ちなみにここに出てくるベルンハルト・M・シュミッドの『道のむこう』という写真集は実在する(ピエブックス刊)。
「夜の空隙を埋める」
名作と言いたい一篇。アパートメントのなかで夜ごと〈私〉とミセス・グハーの部屋だけ停電するという珍現象が発生。ミセス・グハーが電力会社に問い合わせたところ、原因は街で行われている水道工事だという。工事現場に文句を言いにいくため、二人は夜の街に出かける。
深くは知らなかった隣人との夜の散歩は、ちょっとした冒険だ。〈私〉は、あと半年もすれば日本に帰って毎日仕事に追われると思うと語った後で続ける。「そんな日々の中で私、きっと何度も思い出すと思うんです。たとえば今日、あなたと歩いた夜道のことなんかを、まるで人生の大事な一ピースみたいに」。その予感は、彷徨のはてに辿りついた場所で見た光景で確信に変わったに違いない。世界の片隅で、世界と繋がる体験を二人はするのだ。なんとも幸福な一夜の物語である。
「クリスマスイヴを三日後に控えた日曜の……」
クリスマス前のデパートで、人混みに疲れ果てて買い物する気力もなくした〈私〉は、プラダの靴売り場で店員の接客を独占している老婦人を見かける。付き添いの男がプラダを欲しがる理由を語り出し、周囲は思わず聞き耳を立てる。それだけでもしみじみとした良い話だが、終盤、ある一言でぱあーっとその場が華やぐ。空気感を瞬時に変えてしまう台詞の置き場所が巧い。それによって主人公に訪れた小さな心の変化も非常に微笑ましく、くすぐったい一篇。
「クジラ見」
旅先でクジラを見たいと言い出した彼女に渋々つきあった男。賑やかな女性客たちに囲まれ、激しく揺れる船の中でさらに不機嫌になった彼の心の中の悪態が続く。文句たれの鼻持ならない男という印象を持つが、後半に明らかになる二人の関係と状況、さらには最後の一言によって瞬時にこの男が愛らしい存在に思えてくる。視点が男性側にあるので女性側の内面は分からないが、きっと彼女はずっと、そういう目で彼のことを見てきたのだな、と思わせる。最後に読者と彼女が、共感を分かち合うのだ。
「竜宮」
フリーライターの女性が、レコーダー起こしを怠らなくなった出来事を振り返る。過去に彼女が取材した老婦人の言葉が、注意深く読むとまた違った意味に読めてくるという、仕掛けのある話だ。テープ起こしをしなかったために起きた誤解というよりは、彼女が取材前から記事の方向性を決めつけていたがために起きたミスリードではあるものの、録音を聞き返さずに原稿を書こうとしたところに、彼女の気持ちの緩みと驕りが表れている。
私もライターなので断っておくと、相手の言葉をほぼ完璧に書きとめた場合をのぞいて、基本的にインタビュー録音は必ず文字起こしをしている。現場でどんなに集中していても一言一句を記憶している自信はないし、なるべく本人の使った単語、フレーズ、語尾をそのまま再現して、ニュアンスを残したいからだ。もちろんライターによって考え方は異なるだろうが、自分自身は、テープ起こしをしないほうが“一人前”とは一ミリも思わない。
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