書店が好きだ。買いたい新刊をチェックし、リストを持って書店に入るときのワクワク感は、何ものにも代えがたい。平台や棚を見ていて、こちらの知らなかった面白そうな本に出合ったときも、嬉しくてたまらない。購入する本を、片っ端から籠に入れているときは、実に幸せなのだ。
しかも本をレジに持っていくと、ちょっとした余禄まである。栞(しおり)やポストカード、小冊子に出版カタログなど、無料で貰える拡販材が並べてあるのだ。もちろん興味を惹かれたものは、すべて貰うようにしている。なかでもチェックを欠かさないのが、拡販用の小冊子だ。出版社が、どの作家、どの作品に力を入れているか分かるからである。
たとえば、篠綾子の「更紗屋おりん雛形帖」シリーズの第四弾『山吹の炎』が刊行されたときに作られた、四つ折りの小冊子「更紗屋おりん雛形帖のお江戸な世界」を見よ。既刊案内に、シリーズのストーリーと登場人物相関図が、コンパクトにまとめられているのだ。さらに、葉室麟の「美しさだけでなく、ひとの生き方を探し求めている時代小説」、岩井三四二の「ひとつの時代をまるごと描く、スケールの大きな全体小説」という、文庫解説の言葉が引用されているのである。こうした小冊子から、文春文庫編集部が、本シリーズに並々ならぬ期待をかけていることが窺えるのだ。でも、それは当然のことだろう。読めば分かる。文庫書き下ろし時代小説界に、新鮮な風を吹き込む、実に魅力的なシリーズなのだから。その第五弾となる本書の内容に触れる前に、まずは作者の経歴を紹介しておこう。
篠綾子は、一九七一年、埼玉県に生まれる。東京学芸大学卒。小学校時代から作家を志し、私立高校で国語教師をしながら、歴史小説の執筆を始める。二〇〇一年五月、第四回健友館文学賞を受賞した『春の夜の夢のごとく 新平家公達草紙』を刊行して、作家デビューを果たす。二〇〇五年には、短篇「虚空の花」で、第十二回九州さが大衆文学賞に佳作入選した。残念なことに作品は活字にならなかったが、ネットにアップされている作者の受賞コメントで、
「受賞作は京都で見た歌碑をきっかけに構想。人物像の設定に苦心したが、創作した歌を含め、会話の中で和歌を自然に生かすことができたと思う」
と、述べている。篠作品を俯瞰すれば、作者が“和歌”に対して強いこだわりを持っていることが理解できるが、そうした創作姿勢は、最初から現れていたということだろう。なお、この年には、歴史小説『義経と郷姫─悲恋柚香菊 河越御前物語』『山内一豊と千代』も上梓。作者の存在が斯界に印象づけられた。
ところが以後しばらく、作者の名前を見かけなくなる。本格的に再始動するのは、二〇一〇年十一月の『浅井三姉妹 江姫繚乱』からである。これを皮切りに、適度なペースで歴史小説を発表するようになる。そして二〇一四年七月、重要な転機が訪れる。徳川五代将軍綱吉の治世が始まった江戸を背景に、初めて架空の人物を主人公にした文庫書き下ろし時代小説『墨染の桜 更紗屋おりん雛形帖』が刊行されたのだ。その後、この作品をシリーズ化する一方、藤原定家が美貌の僧侶・長覚と共に和歌の謎に挑む「藤原定家●謎合秘帖」シリーズ、江戸に出てきた少女の成長を描く「代筆屋おいち」シリーズ、在原業平が藤原一門の闇を暴く『月蝕 在原業平歌解き譚』といった作品を矢継ぎ早に発表。文庫書き下ろし時代小説の新たな書き手として、大きく注目されて現在に至っている。また、二〇一五年十一月に刊行した『白蓮の阿修羅』では、奈良時代に実在した女性――光明皇后・藤原長娥子・教勝――の、三者三様の生き方を活写し、あらためて歴史小説家としての実力を見せつけた。
さて、作者の経歴はこれくらいにして、本書の内容に踏み込んでいこう。『白露の恋 更紗屋おりん雛形帖』は、「更紗屋おりん雛形帖」シリーズの第五弾だ。主人公のおりんは、京の老舗呉服商「更紗屋」の一人娘だったが、親と店を失い、叔父夫婦の店を頼って江戸に出た。しかし店は閉められており、叔父夫婦と長屋で暮らし、裁縫の腕前で給金を稼ぐようになる。ひょんなことから、江戸で一、二を争う新興の呉服屋「越後屋」の主に見込まれたおりんは、着物にまつわるさまざまな才能を発揮。「更紗屋」再興のために、一所懸命に働く。なぜか実在の人物や事件とかかわり、何度も困難にぶつかるおりんだが、「越後屋」の用心棒をしている訳あり浪人・桜木蓮次とも両想いになり、しだいに未来への希望が固まっていく。
そんな彼女が夢見ているのが、京で親しくしていた公家・清閑寺家の熙姫との再会だ。しかし熙姫には将軍家の側室として大奥入りの話が進められている。また、火事から自分を護って死んだ、初恋の相手の塚原右近のことも、熙姫は気にしていた。江戸のおりんと、京の熙姫。彼女たちの人生は、意外な形で絡まっていくことになる。
本書は、いつものシリーズのように、全四話で構成されている。ただし各話の繋がりは強く、長篇といっていいだろう。物語は、おりんが夢で、熙姫と『源氏物語』について語っている過去を思い出している場面から始まる。おりんが空蝉の君、熙姫が夕顔の君が好きだというところなど、まさにガールズトーク。微笑ましいものである。でも、そこに本書を貫くモチーフが胚胎しているのだ。幾つもの出来事で心を揺らすおりんが、『源氏物語』を想起しながら、ある気持ちに行き着く。そこが本書の大きな読みどころになっている。
おっと、先走りすぎた。おりんの夢に話を戻そう。ここで熙姫は、夕顔の君が初めて源氏の君に会ったときに詠んだ、「心あてにそれかとぞ見る白露の 光そへたる夕顔の花」という一首を口ずさむ。本書のタイトルにある“白露”は、ここから採られたものである。さらにいえば本シリーズは、要所で和歌が使われ、それが登場人物の心情と重なり、物語に深みを与えるようになっている。やはり江戸時代を舞台にした「代筆屋おいち」シリーズでも似た手法が用いられていた。篠作品の独自の光彩は、こうした和歌の扱いにも求めることができるのだ。
懐かしい夢から覚めたおりんは、いつもの日常に戻った。しかし桜木蓮次の様子がおかしい。おりんと会ってもそっけないし、吉原に出入りしているとの噂も聞いた。「越後屋」の主を通じて、あるお偉方が望む、能装束の製作を依頼されたおりんだが、どうにも気が乗らない。アイディア触発のために岩槻の人形を見にいくが、そこが蓮次の故郷らしいと知り、彼の過去を調べたりした。それでも優れた発想で、能装束を作り上げたおりん。依頼主の柳沢保明(シリーズに相応しい着物の話題を通じて、保明の才知を読者に知らしめる小説技法が素晴らしい)にも認められ、見事に依頼を果たした。やがて蓮次が吉原に出入りしている理由も判明。しかしそれは蓮次の過去に深くかかわるものであった。
一方、京では熙姫が、江戸下向を促す使者の鈴木辰之助に、塚原右近のことを調べさせていた。しだいに明らかになる右近の経歴。そして、意外な事実が明らかにされたのである。
本書は、時代小説をフォーマットとしながら、成長小説・恋愛小説・ミステリー・お仕事小説など、さまざまなジャンルの要素が盛り込まれている。作中の能装束もそうだが、おりんが才覚を発揮して優れた仕事をする場面は、読んでいて楽しい。そこから窺える彼女の成長に、嬉しくなってしまうのである。
さらに実在の人物や事件が絡んでくるところも、シリーズのポイントになっている。そもそもおりんと友情で結ばれた熙姫が、実在人物だ。その他にもヒロインの周辺には、実在人物が多い。さらに前作『山吹の炎』では、天和の大火が、物語に組み込まれていた。おりん自身は市井のちっぽけな人間だが、権力者の動向や、実際の事件の余波などによって、歴史のダイナミズムが表現されている。史実と虚構が、バランスよく溶け合った物語になっているところも、シリーズの美質になっているのだ。
そして物語の終盤で、シリーズは大きく動く。意外な事実を知った熙姫と蓮次が、それぞれの場所で新たな決断を下すのだ。しかも蓮次の決断を受け、おりんも新たな決断をする。このことに関連して、二〇一四年七月三十一日に「本の話WEB」にアップされた、作者のエッセイ「自著を語る」に留意したい。その中で作者は、初めて江戸時代小説に挑戦するにあたり、書こうと決めたことがふたつあり、そのひとつが“縫物や染物など「衣」に携わる女性を主人公にすること”だと述べ、
「縫物、機織りをして男を待つ女といえば、七夕の織姫が有名ですが、古典文学でも平安版シンデレラ『落窪物語』の主人公などがそうです。
このイメージから、呉服屋の娘おりんは生まれました。ただし、舞台は江戸。女性はただ待つだけの人生を送っていたわけではないでしょう。だから、私は待つ女ではなく、自ら求めるものに向かってゆく女性を描きたかった」
と、続けているのだ。たしかにおりんは、「更紗屋」再興のために、常に前を見て歩み続けてきた。まさに“待つ女ではなく、自ら求めるものに向かってゆく女性”なのである。だから本書のラストで示された、おりんの“うちは待ってます”という決意には意表を突かれたのである。
でも、よく考えたら納得できた。彼女の待つという決意は、消極的なものではなく、積極的な選択なのだ。仕事のみならず恋も、己の信念と覚悟で、切り拓いていこうとしている。その姿勢にヒロインの、たまらない魅力が表現されているのだ。
ところで、熱心なファンならば、本シリーズを本棚などに並べて保存していることと思う。その背表紙を眺めて、気がつくことがないだろうか。そう、「墨」「黄」「紅」「山吹」「白」と、すべて色の漢字が入っているのだ。しかも収録作品とは微妙に違っていて、オリジナルのタイトルになっている。いったいなぜ、そこまで趣向を凝らすのか。作者のこだわりなのであろう。作品の中身だけでなく、看板まで細心の注意を払い、極上のものを読者に提供する。ここまで手をかけるのだから、本シリーズが面白いのも、当たり前なのである。
だから、シリーズの先が気になってならない。特に本書は、三人の主要人物がそれぞれの決断を下したことにより、物語が新たなステージへと突入することを、強く予感させてくれるのだから。「更紗屋」の再興は成るのか。熙姫と再会できるのか。そして桜木蓮次との恋はどうなるのか。新たな“色”を見せてくれるであろう、シリーズの続きが、待ち遠しくてならないのである。
白露の恋
発売日:2016年09月23日