- 2015.05.26
- 書評
60歳になっても浮気をやめられない
ダメ男小説の傑作!
文:北上 次郎 (文芸評論家)
『無罪 INNOCENT』 (スコット・トゥロー 著/二宮磬 訳)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
ナットというのはサビッチの幼い息子の名前で、バーバラが妻の名だ。すごいでしょ。不倫関係にあった女性のことを思い出して、妻の前で泣きだすんだぜ。目の前で旦那がいきなり泣きだしたら、どんな妻でもびっくりするだろう。その妻の心中をまったく考えずに、この男は淋しさのあまり泣きだすのだ。『推定無罪』を読んだのは一九八八年だから、二七年前である。それだけ歳月がたつと小説の細部は忘れてしまうものだが、他の部分は忘れてもこのシーンはいまだに覚えている。ここで泣くのかよ、と驚いたのだ。正直な男とも言えるけれど、人のことを考えずに自分の感情を優先するというのは、典型的なダメ男にほかならない。
ずいぶん昔に『情痴小説の研究』という本を上梓したことがあるが、その中で情痴小説の主人公の条件を五つ列記した。それは、①主体性に欠けること②優柔不断であること③反省癖があること④自己弁護がうまいこと⑤何事にも熱中しないこと、この五つだ。これは同時に、ダメ男の基本条件でもある。
問題は、そういうダメ男に心が惹かれることだ。なんだか鏡に映るおのれの姿を見るような気がしてくる。お前、それはないだろと呟きながら、心が和んでくるのである。スコット・トゥローの『推定無罪』に惹かれたのもそういうことにほかならない。つまり『推定無罪』は、リーガル・サスペンスの傑作であると同時に、私の好きなダメ男小説の傑作でもあったのだ。強い印象を残したのはそのためである。
しかし、それだけのことなら、ずいぶん昔に、とんでもないダメ男がいたんだよ、という話だけで終わっていただろう。
スコット・トゥローはこの『推定無罪』のあと、さまざまな作品を書いている。『立証責任』のような傑作もあれば、残念ながらそれほどでもない小説もあったりする。それは他の作家たちと同様だ。で、サビッチというダメ男が昔いたことをすっかり忘れていたころ、本書『無罪』が出てきたのだ。
『推定無罪』のときに三九歳だったサビッチが、六〇歳になって登場するから感慨深い。この『無罪』は、またもやサビッチが殺人容疑で逮捕され、裁判にかけられる話である。発端は妻バーバラの急死だ。サビッチが目覚めるとバーバラはベッドで死んでいた。彼女は重い躁鬱病に苦しみ、心臓にも不安を抱えていたので薬漬けの日々を送っていたから、自殺とも考えられる。検死の結果は心不全。自然死と判定される。問題は妻の死を発見してから丸一日、サビッチがどこにも連絡しなかったこと。この不自然な行動が疑惑を呼んで、逮捕されるのである。
サビッチを起訴するのはトミー・モルト。二〇年前の『推定無罪』のときもモルトが起訴したが、同じ人物が起訴するという巡り合わせもなかなかにうまい。本書では『推定無罪』の結末については触れられていない。しかし、サビッチは六〇歳のいま、最高裁判事になっているわけだから、『推定無罪』の裁判では勝ったということになる。つまりモルトは負けたわけだ。そのモルトがふたたび起訴するのだから意趣返し? と思うところだが、そうでないのがトゥローだ。このモルトは、彼なりに正義を考えるのである。この造形が本書のキモ。例によって物語の半分が裁判シーンで、スリリングに読ませるが、それを深いものにしているのがモルトの造形なのである。これ以上はネタばらしになるので控えたい。『無罪』の新刊評で、「前作がそうであったように、今回も圧倒的に読ませる。うまいなトゥロー。横綱、健在である」と私が書いたのも、その完成度にしびれたからにほかならない。
ところで、サビッチが逮捕されるからには動機らしきものもある。妻バーバラの死の一年半前、サビッチが女性と関係を持っていたことが明らかになるのだ。おいおい、懲りてなかったのか。
だから『無罪』の新刊評で、この長編を高く評価してから、私は次のように書いた。「今回の教訓は、四〇歳で愛人を作ってふらふらしているやつは、六〇歳になってもふらふらしているということだ。性格はかわらないのである」
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