語り手である東家の二の姫は、疱瘡を患ってしまった姉、双葉の代わりに急きょ登殿が決まった。子供のころから病弱で人と交わったことのない二の姫は、幼く常識知らずで、人の雰囲気を読めないため、他の姫たちから笑われるばかり。仮名がないのをいいことに、今上陛下の妻、大紫の御前から「あせび」という麗しくない名前をくだされるが、それすらありがたいと言う始末である。
物語は、選ばれた姫たちの性格の違いによる諍いや恋のさや当て、各家の勢力争いを絢爛豪華に描いていく。ファンタジーとはいえ、人に似せ人の暮らしを模した世界では、現代でもあるような、権謀術数渦巻く陰謀が張り巡らされているが、そこは女だけの宮廷。艶やかで優しい雰囲気の物語が続く。
しかし中盤から、それが突如として変わり始める。一つの失踪事件と死が、まるで晴天の空が俄かに掻き曇るように、あれよあれよという間に世界が逆転する。読み始めの甘い味がいつか金臭いものとなり、読後にはほろ苦さが残っている。必ず冒頭に戻って読み返したくなるだろう。
作者は若いながら、かなりの読書歴を持つだろうと推測される。この回の選考に携わった選考委員の作家もそこは見逃さない。
石田衣良はこう評価する。
この作品にはライトノベルの枠組みを超えるスケール感と細部の異常なまでの想像力があった。この異世界創生能力に、ある種の哲学性が加わったら、鬼に金棒だろう。
また小池真理子は、表現力の拙さを指摘しつつその文才を褒める。
時代を超えて普遍的な「女」の本質をまるごと描いてみせている。物語を楽しもうとする読み手を飽きさせない。(中略)読み手の五感に訴える文体が早くもできあがっているからだろう。
残念ながら選考委員全員が諸手をあげての賛成、という結果ではなかったようだが、松本清張賞という性格や色合いから考えて、それは当然のことであったと思う。ライトノベルとかヤングアダルトと呼ばれる青少年向けの小説の隆盛は長く続いていて、今はその垣根は非常に低くなっている。剣や魔法が登場する異世界ものであっても、その奥行や広がりを描ける想像力に多くの本好きは惹かれるのだ。
石田衣良が選評冒頭で述べたように、出版界も、文学賞も、小説も変わらなければならないと多くの人が思っている中で、阿部智里という若い作家があらわれたことは僥倖であったのではないだろうか。
受賞直後のエッセイで、阿部はこう書いている。四歳かそこらの時、虹を食べたと母に語り、突然降りだした雨に困って、大きなキノコに雨宿りしたそうだ。妖精をあっちこっちに見つけ、風の神さまを木の上に見つけたそうだ。そんな物語を母親は書き留めていたらしい。嘘つきとなじるか、想像力が豊かだと将来を楽しみにするか、親の資質が問われるところだが、さすが阿部智里を生んだご両親は天晴れである。
この二人の元で、彼女は十数年前から作家を目指していたと授賞式で高らかに宣言した。大言壮語といわば言え、私はその心意気にいたく感動したのだ。もちろん、作品を読んだうえでのことである。
新人を判断するうえで難しいのは、受賞作だけしかない場合だ。いかにその作品が優れていようと、世の中には“まぐれ”が厳然と存在している。年間二百人とも言われる新人賞受賞作家で五年後に生き残っている率は、大沢在昌『小説講座 売れる作家の全技術~デビューだけで満足してはいけない』(角川書店)によるとひとりかふたり。多くが受賞作だけで消えていく。「この作品しか書けないのではないか」阿部智里への心配はその一点であった。
その心配は一年後に払拭された。それも私の期待を大きく上回る形で。八咫烏のこの世界をさらに大きく広げた『烏は主(あるじ)を選ばない』を上梓したのである。
ここで多くを語ることはできないが、時間軸は『烏に単は似合わない』とまったく同じである。なかなか桜花宮に姿を現さない若宮は、果たして何をやっていたのか。東西南北、四家それぞれが企んでいたこととは何だったのかを描き出している。
若宮のお付のものの失敗が、すでにデビュー作にも取り入れられており、大きな物語として、すでに構想の中に練り込まれていたのには驚かされた。桜花宮の物語が上級の本格ミステリーなら、二作目は固い筆致で進められた、さながらハードボイルド小説のようである。
この夏には三作目がすでに用意されていると聞く。この二年の間に醸された八咫烏世界の群像劇は、果たしてどんな姿に変貌しているのだろう。若き才能がひゅんひゅんと若竹のように伸びていく様子を、みんなで暖かく見守っていこうではないか。
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