盛親には官位がない。「宮内少輔(くないのしょう)」というのは、秀頼が大坂の陣のときに盛親を立ててそう呼んだだけで、公式には何ももらっていない。父の元親は土佐守であり宮内少輔であった。盛親についているのは「右衛門太郎」だけである。
大坂の陣の後、自害しなかった盛親を揶揄(やゆ)して、「生かしてくれと首切り役人に手を合わせて頼み込んだ」という話が残っている。いかにも死ぬのを怖がった腰抜け侍の代表のようにされている。だが、これは、潔く散ることをよしとしたその時代の価値観からそうした作り話ができたのだと思う。
同じ大坂の陣で戦った真田幸村は討死し、毛利勝永は秀頼の介錯をした後、自害したといわれる。確かに私も盛親はなぜ自害せず、蜂須賀の家臣に捕縛されたのか、正直、残念に思う時期もあった。
だが、盛親の人生を追ってみると、「生き抜く」ことを通そうと決意した盛親の思いが私のこころにも浮かんできて、次第に鮮明な姿で現れるようになってきた。その選択の方が盛親にとって、真実苦しいことではなかったかと思う。
死んではいけないのである。長宗我部家当主として生まれてきた身であるなら、自分の後を、きっちりと決めない限り死ねないのだと思ったのではないか。
盛親は、徳川家康に改易された後、大名家として、家臣も抱えてのお家復活を思い描いてきた。その自分に課した使命を果たすまでは死ねない。そして、その思いがかなわなかったときは、長宗我部の系譜を後の者に託す、という使命感もあったのではないだろうか。
盛親は、その牢人時代に「ゆうむ」と呼ばれていたが、その字は「幽夢」「祐夢」「遊夢」といろいろ説があり、どれが事実なのか、あるいはいずれの字も使用していたのかよくわからない。
しかし「夢」の字はどの例にもみられる。大名家復帰への夢を強く抱いていたからなのであろうか。あるいは、長宗我部家の良き時代を四男坊として育ち、短かったけれど多くの家臣とともに過ごした時代が一夜の夢のように思えたからだろうか。盛親という人物は意外に風流を知った人間味のある人物であったのではないかと思う。『戦雲の夢』で、司馬遼太郎も、盛親を柔軟性のある穏やかな人物に描いている。
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