戸部愿山の『韓川筆話』は、江戸時代にまとめられたものだが、全十巻のうちの四巻めに長宗我部盛親の項目を一つ設けて、その処刑のときの様子などを書き込んでいる。戸部愿山が盛親という人物にかなりの関心を抱いていたことがわかる。
その中に「京などのとなへ、かくなりしよし」として「長曾我部」に「ちやうすがめ」とかなを振っている。長宗我部の読み方は盛親が生きていたころの京都では、「我部」は濁って「がべ」と読んでいたようである。
東京など標準語では前の方にアクセントがゆくので「ちょうそかべ」だが、土佐の人は、長宗我部を呼ぶときに後ろの方にアクセントをもってきて、「ちょうそがべ」と濁って読む。長宗我部の読み方について記された古書は少なく、これは貴重な記録だと思う。
また、当家二代(土佐藩の文書では初代)の五郎左衛門親典については、当家の系譜に明確に記されており、それは山内家の文書でも確認できた。『長宗我部』では、五郎左衛門については、推測になることを避けるため敢えて文書類に残されている事実関係のみに触れる形をとったが、本書ではもう少し突っ込んで考えてみた。いずれにしても五郎左衛門が、長宗我部家の系譜のなかで、極めて重要な人物であることに間違いはない。当家に残っている文書などをもとに現段階でその人物に迫れるだけ記してみた。さらなる新資料を待ちたい。
また、四代(土佐藩の文書では三代)の弥左衛門が元禄二年(一六八九年)に山内家の四代当主である豊昌(とよまさ)に「お目見え」をしていることが土佐藩の文書でも確認できた。
長宗我部家の一族ということであったからだろうか。いずれにしてもこれで、下士であっても、山内家の当主とのお目見えは可能であったことが双方の文書で確認できた。また、長宗我部家は代々槍術を得意としていて、土佐藩の記録でも弥左衛門が、豊昌の時代に槍術の御前試合をしたことが記されていた。
長宗我部家に記録されていたいくつかのことが、土佐藩の文書でも確認されたが、当然のことながら山内時代の土佐藩のとらえ方と、当家の見方にはかなり温度差があり興味深かった。
長宗我部家の暗転となった時代の当主である長宗我部盛親を軸に、その思いとその後の系譜を繋いだ人々とその思いを探った。
天皇家からの贈位記では、祖父の親(ちかし)は元親公「十四代孫」とされていたが、長宗我部家の流れをわかりやすくするためにも、いったん元親、盛親の代から改めて、親房を初代とする系譜でみて、私は十七代をとっている。
盛親が大坂の陣に加わり、斬首されてから四百年になる現代でも、盛親にこころを寄せている人々が多くいることを知った。その慰霊碑の前に立ち、大坂の陣のことなどについて思いをめぐらすと、不運な将ではあったが、最後まで生き抜いて長宗我部家の系譜を繋ぐことを思ったそのこころが伝わってくるような気がする。
除幕式の当日は朝から雨であったが、式の間は社殿の周りにある楠の間から少し晴れ間がのぞいた。盛親が微笑んだのではないか、と思った。
(本書「跋」より)
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