藤堂高虎が、八尾、若江の戦いの後に、長宗我部盛親隊の首実検をした八尾の常光寺に行った際のことである。どういういきさつか、その後、京都に行くことになった。
そして気がつくと、いつの間にか鴨川のほとりのおでん屋にいたのである。背中から何か呼ばれているような気がした。東京に帰った後、思い起こして位置をよく確かめてみると、そこはまさしく六条河原の処刑場があったあたりであった。
平成二十七年(二〇一五年)の六月六日には、京都の蓮光寺で盛親の没後四百年の法要が営まれた。蓮光寺の現住職である森慶信さんから、お招きをいただいた。法要にはいろんな方々が百人ほど参列していて、現代にも盛親の心は伝わっているという思いがした。
大坂の陣について、考えることは多い。不思議な戦いであったと思う。既に徳川幕府の体制が出来上がっているのに、牢人衆だけで勝てる見込みはまずないであろう。それなのになぜ敢えて戦ったのか。それについて、私なりの解釈はしたつもりである。
盛親は、その最期に藤堂高虎を討ち取れなかったことを悔いている。徳川家康は討てなくとも、藤堂高虎は倒したかったということは、関ヶ原の戦いの後に起こった長宗我部家の内紛が浮かんでくる。
盛親の兄の津野孫次郎親忠のことである。親忠は人質として長く高虎のところにいたこともあって関係がよく、関ヶ原の戦いで盛親が敗れた後、藤堂高虎の斡旋で、盛親を隠居させて親忠が土佐を引き継ぐとの話が、盛親の耳に入っていたようである。それが、親忠を切腹に追い込んだ理由の一つといわれる。そうした話が現実にあったのかどうか確認できるものは現在は残ってはいない。しかし、仮にそうした話があったとすれば、長宗我部家を繋いでいくことを考えれば、それも一つの選択肢ではあったのではないかと思う。
長宗我部家改易後、盛親は大名家復活の交渉を井伊直政、藤堂高虎を通じて行っていたのだが、結局は失敗に終わっている。そうしたいきさつからも藤堂高虎に対しては何か割り切れないものが盛親の胸の奥につかえていたのかもしれない。
前著『長宗我部』では、主にわが家の系図から長宗我部家の流れをみつめたが、今回は、土佐山内家宝物資料館の協力を得て山内家の資料からも、徳川政権下の長宗我部家の姿を検証することにした。
山内家といっても、前領地の掛川からの家臣は限られていて、実態は長宗我部家の旧臣が多くを占める。その領民は長く長宗我部の治世のもとで暮らしてきている。山内家が土佐を治めるにあたっては相当の苦労があったと思うし、土佐人という一種独特の気質を持った人々の住む地である。一筋縄ではいかなかったであろう。これまでみえなかった山内家と長宗我部侍の関係も浮かび上がってきて興味深いものがあった。
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