山一證券の興亡が主テーマのように思えるが、実は戦中・戦後から今に至る証券市場の歴史物語である。著者鈴木隆がその歴史の大半を実体験しており、ジャーナリストの適確な視点から是非論をも含めて書き下ろしたものだ。さすがに筆は立つ。敢ていえば「証券市場を下敷きにした大河小説」ともいうべく、一気に読み通せる実録読みものだ。恐らく証券市場を筆にしてこれだけの話は他の誰にも書けないだろう。
この本は是非若い人、特に学生諸君や司法・行政を預る官僚諸氏、又マーケットに近い処に職を持っている人々、特に証券、銀行、信託、保険、投資顧問等の経営者や職員には是非読んで貰いたい。戦争、敗戦、戦後、そしてバブル期を経て今日に至った市場経済とは一体何だったのか、これほどハッキリと実名を挙げて述べられている活字媒体は他にはない。本書に出ている人の殆んどはすでにこの世にいないだけに、まことに貴重な書きものとして歴史に残る一書である。
今年は日露戦争が終わって百年ということで、あの時代を回顧する本が沢山出ている。新聞・雑誌も特集記事を組んで紙面をにぎわしているが、国家としての日本の大きな転換期であったこと、経済的にも振幅の大きい年代であったことなどが語られているものは少ない。
この山一證券の百年史は国士の理想を胸に、堅実経営の「小池合資」に入社した、東京帝大法学部卒の太田収の物語から始まる。
維新以来、薩長、特に長州閥がわが国の政、官界を支配してきたが、その間、徳川の側、特に会津の人々は彼らに敵視されてきた。法学士は帝国の官吏になるのが本筋であった。太田収の会津の血は薩長に仕える役人の道を拒否したといえなくもない。
太田収を証券界入りに踏み切らせたのは、野崎広太が語った日露戦争の戦費調達の話だった。野崎は当時中外商業新報(現在の日本経済新聞)の社長である。野崎は日本人はすべて天皇の赤子であり、日本人に賊徒はいない、日本人として日本国のために働けと太田収に語りかけている。
小池合資は、甲府柳町の貧しい商家の出身である小池国三の興した会社、まさしく山一證券の源流である。明治四十三年、小池合資は江ノ島鉄道の社債二十七万五千円を元引受けした。証券業者による初めての物上担保付社債引受けだった。アンダーライティングの第一号といってもよい。戦後の話になるが、わが国の社債制度、社債市場が自由な欧米に比べて大きく立ち遅れた遠因はここにある。
ともあれ、野崎が太田収を小池国三に預けようとしたのは、国三から「日本のモルガンになろう」との野望を打ち明けられていたからである。
然し、自然な株価の流れを腕力で左右しておいて「国のためなら株価の操作をしても構わない」という考え方には、「お家のため」刀で勤皇派を斬った大叔父佐々木只三郎の生き方に通ずるものがある。
「やがて太田収は太平洋戦争への激流に逆らって、死に至る相場にのめり込んで行く。太田収の“滅びの遺伝子”は強く山一に植えつけられるが、この劣性遺伝子は、太田が母方の大叔父・佐々木只三郎から受け継いだものであった。徳川幕府の大政奉還の直後、平和革命論者坂本竜馬を斬り、戊辰戦争への道を開いた佐々木只三郎。この忌わしい血が山一に取りつき平成の大崩壊へと続く」
著者、鈴木の歴史の流れを透徹した眼は鋭いものがあるというべきか。
それにしても社長太田に諫言する人がこの時の山一にはいた。ワンマン社長の買いに売り向った重役陣(木下茂など)の気概が山一を救った。だが、残念なことにその後社長となった小池厚之助は父国三の「経済界に君臨する投資銀行を創ろう」という野心を継承しなかったのであった。
次から次へと流れるような筆は読む者を倦きさせない。戦後の混乱期の話。証取法が連合軍によって制定され、間接金融体制から証券会社(投資銀行)が中心に立って、株式と社債で産業資金をまかなう直接金融体制へ転換させる。この証券民主化の理念はGHQの日本改革の大切な柱だった。残念ながら、歴史の現実は証券民主化を実らせなかった。
その代り、銀行は実力以上の貸付、オーバー・ローン、企業は体力を超えたオーバー・ボロウイングを抱え込む。この体制が日本経済に定着し、昭和三十年代の高度成長を実現する魔術ともなったのである。この現実のなかでは株式市場は勿論、社債市場が出来るわけもなかった。
業者の地図では、恐らく小池・奥村という東京貴族と大阪商人の感性のちがいが山一と野村の未来を分けてゆくことになる。
大阪商人、近江商人、伊勢商人、伊勢路は多くの著名人を株の街に送っていた。相場の名手を、そして証券経営者を。山一については太田収以来「お国のため」「新しい産業を育成する」との理念にとらわれ過ぎていたことが縷々(るる)述べられている。
本書は丹念に文献を調べ、多くの関係者に会って直接生々しい事実を表へ出した。あくまでもザ・ファクトであり、ザ・ヒストリーである。著者は証券市場を愛している。山一がその歴史の真只中にいた。よくも悪しくも、その現実を愛情をもって滅びの美学の筆致で、山一の興亡を書いたものである。