- 2014.09.26
- 書評
この短編集のノスタルジックで高雅な世界は、すでに滅びてしまった世界で亡霊たちが演じる虚構なのか?
文:中条 省平 (学習院大学フランス語圏文化学科教授)
『繁栄の昭和』 (筒井康隆 著)
ジャンル :
#小説
三番目の短編「科学探偵帆村」もまた遊び心いっぱいのミステリーです。帆村とは、日本SF小説の草分け・海野十三が生んだ名探偵・帆村荘六のことで、本作は、帆村が昭和55年という未来に老人となって生きていたらどんな奇怪な事件に巻きこまれるかという仮構的SFミステリーなのです。そのトンデモない事件とトンデモない謎解きは、筒井作品のなかでも屈指のナンセンス性を誇る往年の「郵性省」を思わせるとだけいっておきましょう。この奇想の炸裂と宇宙意志の交錯には、よほど年功を積んだ読者の口もあんぐりと開くことを保証しておきます。
しかし、こうして筒井康隆の独創的なイマジネーションと小説の巧さに酔わされてきた読者は、本書5、6作目の「一族散らし語り」と「役割演技」あたりから、楽しんでばかりはいられなくなります。
「一族散らし語り」は、筒井ワールドのなかで「遠い座敷」「家」「エロチック街道」などに通じる、特異な建築的想像力が発揮される小説ですが、ここではこの家に住む人々や動物たちはなぜか腐敗していく惨い運命にさらされていますし、「役割演技」は、ブルジョワジーの優雅な世界がすべて苛酷な下級労働者の演技でしかなくなったディストピアを出現させています。
『繁栄の昭和』の描きだす、いかにもノスタルジックな、高雅にして感傷的な世界は、もしかしたら、すでに滅びてしまった世界で亡霊たちが演じる虚構の舞台かもしれないという不安が私たちを襲うのです。そういえば、筒井康隆がみずから最後の長編小説だと語った『聖痕』のラストは、東日本大震災を題材にしながら、まるで滅びの讃歌のように、悲痛にして美しい響きを奏でていました。この暗くやさしい基調低音、ノスタルジックでニヒルな世界観が、『繁栄の昭和』を見事な文学作品にしています。
本書には、エノケン映画に出演した女優を褒めたたえるエッセー「高清子とその時代」が併録されていますが、これは客観的な評論でありながら、結末の部分で、作者は懐かしい死者と生者の宴会に出席することになります。「邪眼鳥」のラストは死者たちに出された宴会への招待状で終わっていましたが、いまや作者自身があの宴会の出席者になったかのようです。私は筒井康隆の文学的意志の徹底性に戦慄を禁じえませんでした。