――松本清張賞ご受賞おめでとうございます。発表からひと月あまりたちましたが、受賞のご感想からお願いします。
山本 最初に受賞の知らせをいただいたときは、うれしいというよりも、むしろ非常に重いものを感じました。ようやくこのごろ、うれしさが湧いてきた感じです。受賞作は取材に七年の時間をかけましたので、評価していただけたのはとてもありがたかったのですが、あそこまでしないと評価してもらえないのかという気持ちも強くて……。この間も誰かに「では、次作は七年後ですね」と言われてしまいました(笑)。それでも友だちに「よかったね」と言ってもらっているうちに、だんだん自分でもうれしくなってきました。
――受賞作の『火天の城』は、とても大ざっぱに言ってしまうと、信長が安土城を造る話です。親子の棟梁がそれを請け負うわけですね。そのプロジェクトの進行するさまを実につぶさにお書きになりました。たとえば今日、サラリーマンでも家を建てるときに、自分の城を持つという言い方をしますね。施主と大工との関係がさまざまなアナロジーで個人住宅にも十分に当てはまる。当然のことながら話が進むにつれて、建築というものが抱える様々な問題がいくつも出てきます。資材の調達から工期の問題、それから施主のわがまま……わがままといったらこのひとの右に出る者はいない信長が施主ですから、面白くないはずがない(笑)。そもそもこの構想は、いつごろ、どのような形でお持ちになったのですか。安土城に関心をお持ちになったのは、いつごろでしたか。
山本 私は東京でライターをしていましたが、十年前に実家のある京都に帰りました。歴史が好きなものですから、今までに行ったことのないところへ暇を見つけては足を運んでみたんです。そのひとつが安土でした。安土というところは関西人でも、どこにあるのか知らない人が多いんですよ。
――実際に、いま安土へ行っても城そのものはないわけですよね。
山本 ありません。石垣だけが残っています。信長に関心があって、信長にまつわることを書きたかったくせに、安土に行ったことがなかった。とにかくちょっと行ってみようと思ったわけです。京都からは車で一時間半くらいで行けます。最初に行ったときは電車で行きましたけどね。琵琶湖の南東にある小さな山です。残っている石垣も上のほうは崩れているんですよ。天主台に上がってみると、今でも赤い瓦の小さな破片がいくつも落ちています。崩れてごろごろ転がっている石に、ひとつ小さな穴があいているのを見つけたんです。それがどうも不自然な穴なんですよ。私の勘違いかもしれないけれども、鉄砲の弾が当たったときの穴かなと思ったんです。安土城が炎上したとき、合戦があったという記録はないんですけれど、小競り合いぐらいはあったかもしれない。むしろそのほうが自然だ。きっとこの城には壮大なドラマがあったに違いないと。
――そこから城の運命に思いを馳(は)せたわけですね。
山本 そうですね。まずは資料にあたりました。その期間が実際はとても長かったんですが。それから、信長のほかの城を廻ってみました。岐阜城であり、小牧山城であり、清洲城であり、そういうところを廻ってみました。そのうちに、ふたつめの大きなきっかけが岐阜城で訪れました。岐阜城はよく「天下を語る城」と言われますけれども、実際にそこに立ってみると、三河が見えるし、伊勢湾が見えるし、濃尾平野が見えるし、鈴鹿山脈、養老山地、それから関ヶ原が見えます。背後には飛騨の山々があって、その山々がすうっと濃尾平野に突き出す岬の突端のようなところにある城です。我々がいまふつうに思い浮かべる城というのは、町中にある高い石垣の上に白漆喰で塗られた江戸期の城になりますが、建物そのものよりも位置が大切なんだ、城というのはなによりもまず場所なんだということをそのとき強く感じたんです。だから、小牧山城にしても美濃を狙うための位置にある。天下布武を実現するためにはやっぱり場所から考えても安土でなくてはならない。
誰も手をつけていない分野を
――戦国時代ですから、戦略の拠点としてまず考えなければならないということですね。ただ、『火天の城』が成功しているひとつの要因は、お話が信長その人に向かわずに、あくまで施主として登場している点にあると思います。岐阜城からどういうふうにしてまた安土城のほうに関心が向かっていったのでしょうか。
山本 それはやはり誰も手をつけていない分野を書きたかったということですね。以前に鷹匠(たかじょう)の話(『白鷹伝』祥伝社刊)を書いたのも、誰も取り上げていないテーマを書きたかったからです。今さら誰かが信長を書くといったって、司馬遼太郎先生の本があり、津本陽先生の本があり、じゃあどういうふうに新しい信長像を描けるかというと、非常に難しいと思います。たとえば新選組にしても、浅田次郎先生のように今まで誰も注目しなかった吉村貫一郎をとりあげる。するとそこに新しい視点がすっくと立ち上がって、とても素晴らしい物語になった。そういう視点がないかなと思って探したわけです。
――そこで大工ですか。
山本 実は大工の名前はわかっていて、ある程度の由緒書き、ほんの数行分はわかる。でも、逆に言えばそれしかわからない。あとは自由に書いていいわけです。しかも親子だったのは確かなので、築城の技術のことだけでなくて親子の葛藤も書けるなと思いました。
――なるほど。その恰好の素材を手にしても、すぐに書きはじめないわけですね。
山本 ええ。頭で考えていても、大工のことは大工に訊かないとよくわからない。最初のうちは、城の専門家ではないけれども建築のことがわかる人に図面を見せたりして話を聞きました。たとえば、乱波(らっぱ)の妨害を描くのにどうしようかなというときに、すぐに思いつくのは設計図を盗むことでした。だけど実際に建築家の方に伺ってみると、「いや、図面を盗られたら、また描きますよ。日本の大工は平面図しか描かないので、それくらいは覚えている」という。「じゃあ、何が困りますか」と訊くと、「職人が働かないのがいちばん困るなあ」と言われたんです。全くそのとおりなんですけれども、頭で考えていると思いつかない。取材をしてみてわかるわけです。それで職人たちを妨害する方法を考えたんです。
――長篇第一作の『白鷹伝』に見事に山本さんの美質が表れていると思うのですが、取材のためにモンゴルまでお出かけになっています。取材に対してとても厳しい、徹底した完璧主義的な態度で臨まれるというのは、以前の雑誌記者というお仕事と関係がありますか。
山本 いやあ、厳しいというよりも、楽しくやりたいということに尽きます。モンゴルだって行ってみたいじゃないですか(笑)。ライターをやっていたときに、何がいちばん辛いかと言って、素材がなくて書くときがいちばん辛い。素材さえあれば書けるという自信はありました。歴史ものの取材は楽しいですよ。鷹も見ていると面白いですからね。私は日本放鷹協会という会の会員ですけれども、毎年冬に合宿があるので、それに三回参加しました。猟にも連れていってもらいました。そうでないと、一回話を聞いたぐらいで鷹のことはとても書けません。
――では、まず鷹に興味があって。
山本 いや、これも誰も書いていない分野ということで、鷹匠を取り上げてみようと思いました。べつに猛禽ファンではないんです。猛禽ファンの人たちが集まる鷹狩りの会が日本に四つか五つあると思います。その中でも私が会員になっているのは実際に信長に仕えた諏訪流鷹師の伝統を受け継いでいる会です。参加しているうちに鷹が好きになったので、いまは飼ってみたいと思っています。
信長テクノクラート三部作
――『白鷹伝』にも信長が登場します。最後は家康にまで仕える一人の鷹匠についてお書きになったものです。そもそも信長に代表される戦国時代にご興味が強かったということですか。
山本 そうですね。なんといっても信長に興味があります。なぜ信長なのかと言うと、いちばん構想力と実行力のあった人だと思うんです。自分で思い描いたことをちゃんと突き進めていき、実現させる。若い頃は信長よりも、秀吉が好きだったんですよ。でもよく考えてみたら、それは吉川『太閤記』が好きだっただけで、べつに秀吉そのひとが好きなのではないということに気づいたんです。山田風太郎先生の『妖説太閤記』を読むと、極悪人としての秀吉が書いてあって、「ああ、そうか。これが筆の力だな」と思いました。それで調べてみると、秀吉というのは信長の後継者で、信長の路線を踏襲した人だということがわかってきて、じゃあ誰が最初の発想者かというと、やはり信長にいき当たる。信長はたぶん近代――近世ではなくて――を開いた人かなという気もします。刀にしても、信長の時代には名刀がほとんどないそうです。それは大量生産をさせたからだと思うんですよね。足軽が敵を斬るためには名刀である必要などさらさらない。兵隊を数として扱ったのも信長だろうと思います。きわめて合理的に考えるひとだった。いろんなことが信長から始まっているなと思いました。
――とても興味深いのは、そうして信長に強い関心をお持ちでいながら、『白鷹伝』では鷹匠という職業に就いている人間を、その職業の詳細について極めて緻密にお調べになって書いていらっしゃいます。『火天の城』は安土城を造った棟梁たちが主人公で、これも言ってみれば職業としての大工を徹底的にお調べになって、築城の話を緻密にお書きになっているわけです。こうした職業ないしは職人の細部を通してその時代を書くという手法は、なにかヒントがあったのですか。
山本 大好きな書き出しなんですが、吉村昭先生の『戦艦武蔵』は、有明海の海苔(のり)業者が海苔の養殖に使う棕櫚(しゅろ)が九州から消えてしまって困っているというところから始まります。それはドックを覆う網をつくるのに、海軍が買い占めたからなんですね。戦艦武蔵建造というプロジェクトの大きさを細部が見事に表現している。そういう書き方がしてみたかった。
――これからもしばらくは信長を追いかけてゆくのですか。
山本 いま信長の鉄砲の師匠について取材を進めています。「信長テクノクラート三部作」と勝手に言っていますが、鷹匠、大工、砲術師の技術官僚三人です。この三部作で信長はお終いにしようと思っています。
――今度は銃についていろいろお調べになっているわけですね。
山本 ええ。火縄銃を撃ちたくて公安委員会の猟銃等の講習会に行って、今のところ空気銃は持っているんです。日本前装銃射撃連盟という組織がありまして、火縄銃というのは前から装填するから前装銃というんですが、これを撃っている人たちがいます。関西では和歌山県で撃てるんです。火縄銃は古道具屋に行けば買えますけれども、それを撃てるように修理してくれるところなんかどこにもない。ところが、この人たちのなかにすごい人たちがいっぱいいて、自分で修理するので自宅がもう鍛冶屋のようになっているんです。前装銃の国際大会もあります。日本大会は普通の筒の立射、膝射ち、侍筒(さむらいづつ)という十匁の弾のものと、短い馬上筒と四種目あるんですけれども、馬上筒などは五人ぐらいしかエントリーしないので、今からでも頑張れば全日本チャンピオンになれるかもしれません(笑)。
――じゃあ山本さんがチャンピオンになる日も遠くないわけですね。
火天の城
発売日:2009年08月20日
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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