骨太な歴史小説や地元・京都を舞台にしたはんなり系時代小説を精力的に執筆していた山本兼一さんが昨年二月十三日に逝去されて一年。病と闘いながら、文字通り最期まで原稿に向かった山本さんを支えた英子夫人が綴る作家の顔と夫の顔。
「このことは、誰にも言わないでおこう。」
「うん、そうだね……。」
二〇一二年十月、兼一さんの左肺に腫瘍が見つかった日、わたしたちは、こんな会話をしていた。
空がオレンジ色から藍色に変わるころだった。月が出ていた。満月だったか、三日月だったか、覚えていないけれど。
その月をぼんやりと見つめながら、わたしは次の言葉を待っていた。軽い調子で同意したものの、頭の中が、真っ白で何も考えることが出来なかったのだ。
「病気は治るの。だから秘密にしていても、なんの問題もないでしょう?」
明るい声に驚いて、わたしは暗がりの中で、彼の顔を探した。
笑っていた。生き生きしていた。病気と戦いたくて、ウズウズしている表情だった。
わたしも一緒に戦おう。
前しか見ていない、逞しい顔を見つめていたら、自然とそう思えた。
彼は、小説を書くことが大好きなんだ。それができなくなるなんて、ありえないもの。
入院期間は、およそ二か月。
「連載が始まっている新聞小説は止められない。ノートパソコンとプリンターを買いに行こう。」
「病室にプリンターも持ち込むの? 個室をお願いしなくちゃ……。」
「資料もあるから、荷物が多くなるなぁ。」
二人でバタバタと準備をした。作家らしく『入院生活物語』のプロット(あらすじ)も立てた。
【物語の主人公は山本兼一。兼一は病室で原稿を執筆しながら、苦しい治療に耐える。優しい嫁(ここは意見が分かれた)の支えと、素晴らしい忍耐力で肺の腫瘍は寛解。】単純なハッピーエンドの物語だ。
入院初日の夕方、治療スケジュールの話し合いがもたれた。もちろん彼も一緒に説明を聞く。主治医の先生の言葉に熱心に耳を傾け、質問をしていた。今までたくさん取材をしてきた彼の質問は的確だ。CT画像、MRI画像、PET画像――。原発ガンはどこか、転移の有無を確認する。
シビアな状態だけど、治療には複数の選択肢があると聞き、彼の顔がほころんだ。
病室へ入り、入院の準備をしている彼を残し、わたしは事務手続きのために看護師詰め所へ行った。
しばらくしてもどると、病室の様子が変っていた。備品を移動し、仕事がしやすいようにレイアウトをかえていたのだ。
「明日から、頑張ります。どうぞよろしく。」
わたしを見るなり微笑んだ。ナミダが出そうになって、慌てた事を覚えている。
戦う気いっぱいでスタートしたが、現実はプロット通りにいかなかった。入院して一か月、試せる抗ガン剤のどれも、いい結果を出してくれなかった。
あきらめそうになったとき、効果が期待できる分子標的薬が見つかった。
一日一錠の薬で、どんどん呼吸が楽になった。力強く歩けるようになり、たくさん食べて、退院の日を迎えることができた。
「山本兼一、復活! ほら、プロットどおりでしょう。」
彼は、胸を張って言った。
二〇一三年の新年を、家族四人で迎えた。そして冬休みが終わり、娘は神戸の大学へ通うために帰っていった。四月から、東京で大学生活を始める息子は、準備のため三月末に家を出た。
わたしたちは、二人きりになった。
子たちの親離れを寂しがるわたしに、彼は楽しそうにこう言った。
「山本家の始まりにもどったね。」
何ごとも前向きな、彼らしい言葉だった。