2004.03.20 インタビュー・対談

それとない『ご縁』の有難さ

聞き手: 「本の話」編集部

『多生の縁――玄侑宗久対談集』 (玄侑宗久 著)

――本書は、玄侑さんにとっての初めての対談集ということになります。そのタイトルの「多生の縁」という言葉には、何か特別な意味合いがこめられているのでしょうか。

玄侑 「多生の縁」というのは不思議な言葉で、文字通り「多くの生」を表しています。つまり輪廻(りんね)を前提としていて、前世とか、あるいはもっとその前の生の中のどこかで、今回この世で出遭うご縁ができたんだよ、ということです。そう言ってしまうと、おがみやさんの論理と一緒だし、単なる偶然でしかないと受け取ることもできるでしょう。

 けれど、最近流行っているプロセス思考心理学などでも、たとえば嫌いな人との出遭いを何かの必然だといいます。それは、嫌いな人というのは自分の嫌な部分そのものを持っている、あるいは見せられてしまうから嫌いになるわけで、無自覚でも自身の中に在るものなんです。だから、その人から逃げても、自分の中に原因があるのだから、また同じような類の人間に出遭ってしまう=因果というものがあるわけですね。でも因果というものは、われわれの目に見える世界で起こるとは限らないし、むしろ、それはすべて目に見えないんだというのが、仏教的な因果の基本です。だから、見えないご縁のことを、「お蔭さまで」と「様」を付けて呼ぶんですね。今回お目にかかった方々とのご縁も、敢えて必然だと思うことで、深いものが生れてくるんじゃないかと思っています。

――九人のお相手は、それぞれ文学、宗教、哲学、医学などの分野で道を究めていらっしゃる方々ばかりですが、各々の宗派は、真宗であったり、キリスト教であったり、玄侑さんの臨済宗とは異なる場合もありましたね。

玄侑 普通の坊さんには、他の宗教の方との交流の機会はあまりないんですが、お蔭さまで(笑)、芥川賞の受賞以降、宗派にほとんど関係なく、いろいろな依頼をいただいています。キリスト教系の病院のガン病棟にいらっしゃる牧師さんが、わざわざ「日本人の末期のターミナルケアには仏教が必要だから、話をしに来てもらえないだろうか」とおっしゃってくれたこともありました。

 意外に思われるかもしれませんが、キリスト教であっても、禅宗とつながっている部分というのはかなりあるんです。一番に似ていると思うのは、思考の範囲の外――瞑想という言葉にも置き換えられますけれど、そういったものを重視するところですね。カトリックを信仰されている鈴木秀子さんが、対談のために私のお寺に見えたときに、「黙識(もくしき)」と書かれた額を見て「私たちと一緒です」と感激されていましたが、神に会うときというのは、左脳が休止して、思考も完全にストップした状態なんです。なぜなら、神というのは思考の対象ではないわけですから。これはいわゆる禅的な悟りと同じだと思います。

――対談に登場する五木寛之さんや、梅原猛さんも、キリストならキリストだけ、アラーならアラーだけしか認めない価値観が、現代社会のさまざまな対立の原因を生んでいるとおっしゃっています。

玄侑 『ヨハネによる福音書』に「はじめにロゴスありき」という言葉がでてきますが、「ロゴス」と名づけられた時点で、それはもう知性がとらえる対象になり、比較することもできるようになっていますよね。たとえ同じものであったとしても名づけ方によって、アラーになったり、神になったりして区別され、細分化されていく運命にある。瞑想というのは、そういう思考の範疇外です。それがもっと重視されていけば、キリスト対イスラム、二つの世界の対立みたいなものも解消していくのではないでしょうか。

 ただし、ものに名をつけることが出来ないと、何も考えられなくなってしまうわけで困ってしまう(笑)。そのときに、じゃあ何が穏当な名づけ方かになりますが、日本古来の「八百万(やおよろず)」っていう表現は非常に格好いい。クールです。ただし、日本人は宗教という考え方が欧米から渡来してきたときに、自分たちの考え方に自信を持てず、その良さというものを失っていってしまったのは、本当に残念です。

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多生の縁――玄侑宗久対談集
玄侑宗久・著

定価:本体524円+税 発売日:2007年01月10日

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