アメリカはベトナム戦争の泥沼にあがき、中国は文化大革命に熱狂し、第四次中東戦争の影響で原油が高騰。日本はといえば東大紛争、三島事件、あさま山荘事件――。世界中が熱と血に煽られ、ギラギラしていた季節。それを締めくくったのは、戦後政治を象徴する男のひとり、“今太閤”田中角栄首相の辞任でした。
昭和40年代のできごと
1965(昭和40)年 池田勇人前首相死去 『危機の宰相』(沢木耕太郎) | 詳細 |
1966(昭和41)年 文化大革命 『合本 大地の子』(山崎豊子) | 詳細 |
1967(昭和42)年 チェ・ゲバラ、ボリビアで死す 『チェ・ゲバラ伝 増補版』(三好徹) | 詳細 |
1968(昭和43)年 石原慎太郎、参院全国区でトップ当選 『国家なる幻影 わが政治への反回想(上下)』(石原慎太郎) | 詳細 |
1969(昭和44)年 東大紛争 『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』(佐々淳行) | 詳細 |
1970(昭和45)年 三島事件 『五衰の人 三島由紀夫私記』(徳岡孝夫) | 詳細 |
1971(昭和46)年 沖縄返還協定調印 『評伝 若泉敬――愛国の密使』(森田吉彦) | 詳細 |
1972(昭和47)年 連合赤軍あさま山荘事件 『一九七二 「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』(坪内祐三) | 詳細 |
1973(昭和48)年 第1次オイルショック 『狼がやってきた日』(柳田邦男) | 詳細 |
1974(昭和49)年 田中角栄首相辞任 『田中角栄 その巨善と巨悪』(水木楊) | 詳細 |
1965(昭和40)年 池田勇人前首相死去
『危機の宰相』
(沢木耕太郎 単行本刊行 2006年)
前年10月25日、東京オリンピック閉幕の翌日、喉頭がんを患っていた池田首相は退陣を表明し、後継に佐藤栄作を指名した。8月13日死去。享年65。
1960年、安保闘争後の騒然とした世情の中で首相になった池田は、次の時代のテーマを経済成長に求めた。すなわち「所得倍増」。
「戦後三十年を通じて、この二つの言葉(「アンポ反対」「所得倍増」)ほど社会全体に強い影響を与えたものはない。一九六〇年代はアンポに明け、バイゾーに暮れた。一九六〇年代とは、『アンポ反対』を叫んだ人びとがやがて『所得倍増』の幻想にからめとられ、流れに巻き込まれていった時代といえる。その意味では、『所得倍増』こそ戦後最大のコピーライティングだったといえるかもしれない」(本書より)
所得倍増計画、それは大蔵省で長く“敗者”だった池田、田村敏雄、下村治という3人の男たちの夢と志の結晶でもあった。政治と経済が激突するスリリングなドラマを沢木氏が鮮烈に描く。あのとき、経済は真っ赤に熱をはらんでいた。
1966(昭和41)年 文化大革命
『合本 大地の子』
(山崎豊子 単行本刊行 1991年)
中国共産党首脳部内の権力闘争に打ち勝つため、毛沢東は修正主義打倒を掲げ、大衆を扇動した。いわゆる文化大革命。中国全土を巻き込んだ騒乱は66年に本格的に始まり、76年、毛の死去をもって終わった。粛清、餓死による犠牲者は数十万人あるいは1,000万人以上ともいわれ、未だ全容は定かでない。
山崎豊子が8年の時を費やして書き上げた本作のストーリーには、現代中国の転換点であるこの出来事が大きく関わっている。旧満州の日本人開拓村に生まれたが戦争孤児となり、陸一心という名で中国に育った男。“小日本鬼子”として辛酸を舐め、運命に翻弄されながらも中国発展に力を尽くす一心。しかしそこに文化大革命という暴風が襲いかかる――。
“取材の鬼”と称された山崎は、連載開始前の中国取材に3年を費やした。その中には胡耀邦総書記(当時)との単独会見も含まれる。膨大な史実の上に山崎が紡いだ、日本と中国、二つの祖国を背負った男の物語。その人生は読む者の心を興奮と感動で震わせる。全日本人、必読。第52回文藝春秋読者賞受賞作。
1967(昭和42)年 チェ・ゲバラ、ボリビアで死す
『チェ・ゲバラ伝 増補版』
(三好徹 単行本刊行 1971年/増補版刊行 2014年)
アルゼンチンの裕福な家に生まれたチェ・ゲバラは、貧困と圧制と腐敗の覆う現実を目のあたりにし、医師となったのちキューバ革命へと身を投じた。
1959年、フィデル・カストロとともに革命を成就させたゲバラだったが、6年後、大臣の座を捨ててキューバを離れ、再び革命の場に自らを置く。アフリカ、東欧などを流転の末、南米ボリビアで軍事政権打倒のゲリラ戦を繰り広げていた10月8日、政府軍に捕らえられ、翌日銃殺された。享年39。
チェ・ゲバラを革命へと駆り立てたものは何だったのか? 遺した言葉が「ユネスコ世界記憶遺産」に登録され、今なお全世界で語り継がれる伝説の男、ゲバラを描いた不朽の傑作評伝。最近判明した事実も盛り込んだ増補版。
1968(昭和43)年 石原慎太郎、参院全国区でトップ当選
『国家なる幻影 わが政治への反回想(上下)』
(石原慎太郎 単行本刊行 1999年)
一橋大学在学中の1956年、デビュー作「太陽の季節」で第34回芥川賞を受賞した石原慎太郎氏。弟・裕次郎とともに、その存在はまさに昭和30年代の太陽だった。この年、参議院選挙の全国区に初出馬し、300万票という未曾有の大量得票でトップ当選を果たしたのも、当然の結果だったといえよう。
その後、小説を書き続けるとともに政治家として環境庁長官、運輸相、そして東京都知事と、政治家として50年近く活動した石原氏が、都知事就任前に記したのが本書である。
三島由紀夫からの公開状、田中角栄との対決、青嵐会の結成、環境庁長官就任、四十日抗争、盟友・中川一郎とベニグノ・アキノの死、自民党総裁選出馬。
政治という“魔の海”の航海で直面した暗闘、謀略、欲望、そして死を、圧倒的な迫力で記した回想録。政治の世界は喜劇が悲劇であり、背信が誠実である――。
1969(昭和44)年 東大紛争
『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』
(佐々淳行 単行本刊行 1993年)
1960年代末、安保延長反対、ベトナム反戦、授業料値上げ反対などを争点とし、学生運動のエネルギーは頂点に達した。
日大では秋田明大議長率いる日大全共闘が、大学側の使途不明金発覚を機に大規模な闘争を組織。“大衆団交”で大学理事の総退陣を迫った。東大でも山本義隆を議長とし東大全共闘が結成され、キャンパスを封鎖。大河内一男総長を辞任に追い込み、東大は69年度の入試中止を余儀なくされた。
1月18日、加藤一郎総長の要請により、封鎖排除を目的とした警視庁機動隊が東大キャンパスに進入。午後1時16分頃、学生が籠城する“本丸”安田講堂に対し、本格的な攻撃を開始した。放水に煙る時計塔、屋上から投下される人頭大の石塊、火炎瓶に灼かれる機動隊員。そのとき、作家・三島由紀夫から緊急電話が――!
国民が注視した大学紛争の天王山、安田講堂攻防戦を、警視庁警備部警備第一課長として現場指揮にあたった筆者が克明に綴る。第54回文藝春秋読者賞受賞作。
1970(昭和45)年 三島事件
『五衰の人 三島由紀夫私記』
(徳岡孝夫 単行本刊行 1996年)
戦後を代表する作家、三島由紀夫。『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『宴のあと』『午後の曳航』など名作・問題作を世に問う一方、自らの映画化作品に出演し、ボディビルで鍛え上げた肉体をグラビアで披露するというその行動は、従来の小説家のイメージを覆した。
三島は政治的発言にも積極的だった。特に60年代半ば頃からの言動は憂国的色彩を強め、自衛隊体験入隊、私兵組織「楯の会」結成へと至る。
11月25日。楯の会メンバー4人を従えた三島は、日本刀を携え、自衛隊の市ヶ谷駐屯地に赴いた。総監室で益田兼利東部方面総監と懇談中、突如彼を拘束、そしてバルコニーに立ち、集まった自衛隊員に「天皇陛下のための決起」を呼びかける演説をおこなった。総監室に戻ると、割腹自殺を遂げた。享年45。
三島は市ヶ谷に赴く前、決死の檄文を二人の記者に託した。そのうちの一人が徳岡孝夫氏である。なぜ三島は檄を氏に託したのか。二人の交友の中に立ち現れる三島由紀夫は、多彩で、実に「面白い人」だった――。四半世紀を経て初めて語られた哀切の三島像。人が人を回顧した文章で、これを超えるものがあるだろうか。第10回新潮学芸賞受賞作。
1971(昭和46)年 沖縄返還協定調印
『評伝 若泉敬――愛国の密使』
(森田吉彦 文春新書刊行 2011年)
戦後、米国の統治下にあった沖縄。1964年に首相に就任した佐藤栄作は、沖縄返還実現を重要課題に掲げ、さまざまなチャンネルを用いて米国との交渉を試みた。そして6月17日、沖縄返還協定の調印を実現。翌72年5月15日をもって沖縄は日本に復帰した。
「君に委すから、全部まとめてきてくれ給え」――交渉にあたり、佐藤首相の“密使”として動いた男がいた。国際政治学者・若泉敬。
舞台裏で交わされた「核の密約」は、いかなる背景のもとに成立したのか。長い隠棲の後、若泉はなぜ『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(1994)の刊行に至ったのか。波瀾の人生をどう過ごしたか。そして、戦後の「現実主義」に、どのような影響を与えたのか。
多くの証言と新たな解釈により、気鋭の学者が「密約」にとどまらない若泉敬の全体像に迫った評伝。実は、若泉敬こそが日本の運命を決めたのだ。
1972(昭和47)年 連合赤軍あさま山荘事件
『一九七二 「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』
(坪内祐三 単行本刊行 2003年)
新左翼組織、赤軍派と京浜安保共闘。それぞれ強盗や銃砲店襲撃などの非合法活動を通して資金と武器を蓄えてきた両者が合体、連合赤軍が誕生した。
1971年暮れ、山梨県の山間部で軍事訓練をおこなった連合赤軍だが、その過程で内部対立が先鋭化、「総括」と称するリンチが繰り広げられた。のちに12人の死者を出していたことが明らかになる。
2月、山から下りたメンバーが逮捕される。警察は大規模な山狩りを開始した。追われた坂口弘ら5人は2月19日、軽井沢の楽器メーカー保養所「あさま山荘」に、管理人の女性を人質にとって籠城した。以後28日の全員逮捕に至るまで、3人の死者を出す凄惨な攻防戦が繰り広げられた。
坪内氏は本書で、この年を「高度成長期の大きな文化変動が完了した年」と位置づける。連合赤軍があさま山荘に立てこもり、宮の森シャンツェに3本の日の丸が揚がり、田中角栄が列島改造を叫び、ニクソンが突如北京に赴いた――。高度成長期の生真面目さとエンタテインメント志向の萌芽が交錯した、奇妙な季節。熱い時代の息吹を伝える新感覚の文化評論。
1973(昭和48)年 第1次オイルショック
『狼がやってきた日』
(柳田邦男 単行本刊行 1979年)
10月、第四次中東戦争の勃発により、中東産油国は原油価格の引き上げを発表。西側先進国に激震が走った。とりわけサウジアラビア、クウェートなどの原油に大きく依存する日本経済が受けた打撃は甚大だった。
街のネオンサインは消え、テレビは深夜放送をとり止め、人々はトイレットペーパーを買うために開店前のスーパーに列をなした。翌年の経済成長率は戦後初のマイナス成長に沈み、福田赳夫蔵相が“狂乱物価”と称するまでにインフレが加速。高度経済成長の宴から一転、日本経済は戦後最大の危機に陥った。
そのとき、政府は、官僚は、商社マンは、庶民は何を考え、どう行動したのか? 本書は未発表の膨大な資料と多くの人々の証言をもとに、当時の状況を克明に再現した“ドキュメント石油危機”である。
「国際的事件に対する日本の対応には、いつも何かしら共通したパターンがあるように見える。戦後最大の転換期となった石油危機の日本的反応を検証することは、その共通パターンを確認し、国際化時代の日本のあり方を考えるうえで、きわめて重要であると思う」(「文庫版へのあとがき」より)
1974(昭和49)年 田中角栄首相辞任
『田中角栄 その巨善と巨悪』
(水木楊 単行本刊行 1998年)
1972年の首相就任以降、“コンピュータつきブルドーザー”と呼ばれた突破力で日中国交正常化などの業績を挙げてきた田中角栄。その足下をすくったのは、気鋭のジャーナリストのペンだった。
「文藝春秋」74年11月号に「田中角栄研究」(立花隆)と「淋しき越山会の女王」(児玉隆也)が掲載されるや、国会は田中の金脈問題を激しく追及。12月9日、田中は内閣総辞職に追い込まれた。
田中角栄は、戦後日本の生んだ、まぎれもない天才である。比類ない強烈な磁力を放射した人物だった。その業績は赫々たるものであり、歴史はその価値までを否定できない。が、日本の社会を歪めもした。スケール大きく生きた、毀誉褒貶相半ばの男であり、まさに戦後日本の光と影を象徴する政治家だといえよう。
徒手空挙だった彼を権力の頂点に登らせ、そして破滅させた原因とは何だったのか? 善と背中合わせの悪、悪と共存する善――“田中角栄という物語”を水木氏が鋭く描く。
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『リーダーの言葉力』文藝春秋・編
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