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第153回芥川賞候補作(抄録)又吉直樹「火花」(文學界2月号)

第153回芥川賞候補作(抄録)又吉直樹「火花」(文學界2月号)

又吉 直樹

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

 この大いなるものに対していかに自分が無力であるかを思い知らされた夜に、長年の師匠を得たということにも意味があったように思う。それは、御本尊が留守のうちにやってきて、堂々と居座ったようなものだった。そして、僕は師匠の他からは学ばないと決めたのだ。

 花火を夢中で見上げる人々の前で、最終的に自暴自棄になった僕が、「インコは貴様だ」と飼い主に絶叫するセキセイインコをやり始めたところで、ようやく僕達の持ち時間である十五分が終了した。汗ばかりかいて、何の充実感もなかった。そもそも、花火が打ち上がるまでに余興は全て終了する予定だったのだ。大道芸を披露した老人会の面々が観衆にのぼせあがり、大幅に持ち時間を越えたために、このような惨事が起きたのである。今宵の花火大会において末端のプログラムに生じた些細なずれなど誰も修正してくれはしない。たとえば僕達の声が花火を脅かすほど大きければ何かが変わっただろうけど、現実には途方もなく小さい。聞こうとする人の耳にしか届かないのである。

 僕達が舞台から降りた時、「熱海市青年会」と書かれた黄ばんだ粗末なテントの中は、老人達の酒場と化していて、その隅で待機していた最後のコンビが気怠そうに外へ出てきた。そして、僕とすれ違う瞬間に、「仇(かたき)とったるわ」と憤怒の表情でつぶやいた。言葉の意味がすぐにはわからなかったのだけど、僕はその二人から、特に僕に言葉を投げかけた人物から眼が離せなくなった。人混みに紛れ、通行人の妨げになりながら、僕はその人達の漫才の一部始終を見届けた。その人は相方よりも背が高いため痩せた腰を折り曲げてマイクに噛みつくような体勢となり、通行人を睨みつけながら「どうも、あほんだらです」と名乗った後、大衆に喧嘩を売るかのように怒鳴り出した。それがほとんど意味不明で、どのような様子だったかを正確に記すのは困難だけれど、「私ね霊感が強いからね顔面見たらね、その人が天国に行くのか地獄に行くのかわかるの」などと唾を撒き散らしながら叫び、通行人一人一人に人差し指を向けて、「地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、なんやの罪人ばっかりやないのあんたらちゃんとし」と、そういえば何故かずっと女言葉で叫んでいた。「地獄、地獄、地獄、地獄、地獄」と続けてその人が叫んでいる間に相方は何をしているかというと、二人に対して苦情や文句を言ってくる輩にマイクを通さず、「殺すぞこら、こっち来てみい」と鬼のような形相で叫び散らしていた。相変わらず、もう一人の方は執拗に「地獄、地獄、地獄、地獄、地獄、地獄」と叫び続けていたのだけど、急に一点に眼を向けたまま、声も動きも停止させた。どうしたのだろうかとその人の指が示す方を覗いてみると、そこにいたのは母親に手を引かれた幼い女の子だった。僕は一瞬で心臓に痛みを感じ、どうか何も言いませんようにと何かに願った。これが花火大会にいてこまされた僕達の仇討ちならやめて貰いたいと思ったけれど、その人は満面の笑みを浮かべ、「楽しい地獄」と優しい声で囁き、「お嬢ちゃん、ごめんね」と続けた。もう僕は、その一言で、この人こそが真実なのだとわかった。結果的にその人達は僕達よりも遥かに大きな失態を晒し、終演後に主催者は顔を赤くして怒っていたけれど、その時でさえも、その人の相方は主催者を睨みつけて威嚇していたし、その人は僕に子供のような笑顔を向けていた。その無防備な純真さを、僕は確かに恐れていた。

 僕がテントの隅で着替えていると、その人は主催者の罵詈雑言から逃れ、僕の側に笑顔で歩み寄ると、「取っ払いでギャラ貰ったから呑みに行けへんか?」と僅かに引き攣(つ)らせた顔で声をかけた。

 熱海の旅館が立ち並ぶ通りを、無言で花火に照らされながら二人連れ立って歩いた。その人は、虎が描かれた黒いアロハシャツを纏(まと)い、着古したリーバイス501をはいていた。痩身だが眼光が鋭く、迂闊に踏み込ませない風格があった。

 風雨で傷んだ看板を掲げる居酒屋の片隅で安定の悪いテーブルを挟み、向かい合って腰を降ろした。僕達の他は花火や人混みに疲れた年配の観光客が多かった。誰もが圧倒的な花火を引き摺っていた。壁には誰かのサインが書かれた色紙が飾られていたが、煙と油で茶色に変色していて、このサインを書いた人はもう死んでいるのではないかと漠然と思った。

「なんでも好きなもん頼みや」

 その人の優しい言葉を聞いた瞬間に安堵からか眼頭が熱くなり、やはり僕はこの人に怯えていたのだなと気づいた。

「申し遅れたのですが、スパークスの徳永です」とあらためて挨拶すると、その人は「あほんだらの神谷(かみや)です」と名乗った。

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火花
又吉直樹・著

文藝春秋 定価:本体1,200円+税 発売日:2015年03月11日

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文學界2015年2月号

定価:970円(本体898円) 発売日:2015年01月07日

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