これが僕と神谷さんとの出会いだった。僕は二十歳だったから、この時、神谷さんは二十四歳のはずだった。僕は先輩と一緒にお酒を呑んだことがなく、どうすればいいのか全然わからなかったのだが、神谷さんも先輩や後輩と呑んだことが今までにないようだった。
「あほんだら、って凄い名前ですね」
「名前つけんの苦手やねん。いつも、親父が俺のこと、あほんだら、って呼ぶからそのままつけてん」
瓶ビールが運ばれてきて、僕は人生で初めて人に酒を注いだ。
「お前のコンビ名、英語で格好ええな。お前は父親になんて呼ばれてたん?」
「お父さん」
神谷さんは僕の眼を見たままコップのビールを一気に空け、それでもまだ僕の眼を真っすぐに見つめていた。
数秒の沈黙の後、「です」と僕はつけくわえた。
神谷さんは黒眼をギュウと収縮させて、「おい、びっくりするから急にボケんな。ボケなんか、複雑な家庭環境なんか、親父が阿呆なんか判断すんのに時間かかったわ」と言った。
「すみません」
「いや、謝らんでええねん。いつでも思いついたこと好きなように言うて」
「はい」
「その代わり笑わしてな。でも、俺が真面目に質問した時は、ちゃんと答えて」
「はい」
「もう一度聞くけど、お父さんになんて呼ばれてたん?」
「オール・ユー・ニード・イズ・ラブです」
「お前は親父さんをなんて呼んでんの?」
「限界集落」
「お母さん、お前のことなんて呼ぶねん?」
「誰に似たんや」
「お前はお母さんを、なんて呼ぶねん?」
「誰に似たんやろな」
「会話になってもうとるやんけ」
ようやく、神谷さんが微笑(ほほえ)んで、椅子の背もたれに背中をつけた。
「二人がかりで結構時間かかったな。笑いって、こんなに難しかったっけ?」
「僕も吐きそうになりました」
「お互いまだまだやな。取りあえず呑もう」僕は酒を注ぐタイミングもわからずに、いつの間にか神谷さんは手酌(てじゃく)で呑んでいた。
神谷さんは何度も、「ここは俺が奢(おご)る」と繰り返していたので、これは半分払えということなのだろうと思い、「払います」と言ったら、「阿呆か、芸人の世界では先輩が後輩に奢るのが当然なんや」と神谷さんは嬉しそうに言ったので、これが言ってみたかったのだなとわかった。
僕は誘って貰えたことが嬉しくてついつい質問をしたくなり、まず最初になぜ漫才の時、女言葉で叫んでいたのかを聞いた。
神谷さんは、「その方が新鮮やろ、必然性なんかいらんねん。じゃあ、女言葉を使ったらあかん理由はなんやねん?」と言った。
神谷さんは真剣な表情で僕の顔を覗き込んでいる。早く答えなくてはと焦る。
「聞いている人が、なぜこの人は男なのに女言葉で話しているのやろうと疑問に思うことによって、重要な話が頭に入りにくくなるからですかね」と僕は真面目に答えた。
「お前大学出てるんか?」と神谷さんが不安そうに言ったので、「高卒です」と答えると、「ど阿呆、大学も出てへん奴が賢いふりすな」と僕に顔を近づけて頭を拳で殴る真似をした。
神谷さんは「人と違うことをせなあかん」ということを繰り返し言い、焼酎を五杯程呑み赤らんだ顔の中で両目が垂れだした頃には、どのような話の流れでそうなったのか、僕は神谷さんに「弟子にして下さい」と頭を下げていた。
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