あんな表情をするぐらいなら、いっそ部屋を移ればよかろうに、彼は頑(かたく)なに庭に臨む一間から動こうとしない。三度の食事も自室に運ばせ、庭端の土蔵を前に、日がな一日、ひたすら絵を描いている。
兄たちや義母が教えてくれたわけではない。だが、お志乃はちゃんと知っている。
源左衛門の妻であったお三輪(みわ)は八年前、あの蔵で首を吊って死んだ。もともと絵を趣味としていた彼はそれ以来、土蔵の見える一間に引きこもり、画布だけに向き合って日を過ごしているのだ。
塀に沿って植えられた小竹がそよぎ、冴えた梅の香がお志乃の全身を包んだ。
枡源の者はみな、お三輪が死んだ土蔵とそれを囲む庭を避けている。このため庭の梅や紅葉がどれほど美しかろうと、それを愛でる者は一人もいない。誰にも顧みられぬまま、春日に花弁を光らせる梅花が、哀れでならなかった。
(あんなに綺麗に咲いてるのになあ――)
このとき梅の根方の藪ががさっと音を立てて動き、大柄な青年が姿を現した。縁先の二人を驚いたように振り返り、意志の強そうな顔をしかめた。
店先も通り庭も越えた、奥庭である。お志乃は思わず腰を浮かしたが、源左衛門は細い眉をぴくりと跳ね上げただけで、彼に平板な声を投げた。
「――弁蔵やないか。久しぶりやな」
その言葉に、彼は無言のままひどく緩慢な仕草で小腰を屈めた。
「今日は呼び立ててすまんこっちゃ。伊右衛門はんはもうお着きなんかいな」
「へえ、お座敷のほうにおいでどす。わしはちょっと蔵を見たかったもんで、勝手に入らせていただきました」
応じた弁蔵の声もまた、源左衛門に劣らず感情の起伏がない。だが髪に櫛目を通し、いかにも物堅いお店の奉公人然とした身形(みなり)にもかかわらず、その目付きは今にも源左衛門に殴りかかりそうなほど猛々しかった。太い眉と鰓(えら)の張った顔立ちが、剛健な印象を更に強めていた。
これがあの弁蔵なのか。「姉(あね)さんは枡源の人らにいびり殺されたんや」と悔しげに訴えた少年の姿が、お志乃の記憶の底で緩やかに甦った。
まるで宿敵でも見るような弁蔵の眼差しを、源左衛門は平然と無視した。濡れた手を手拭いで拭きながら、そうか、と小さくうなずいた。
「遠慮せんかてええで。ここはお前の実家も同然。ほん目と鼻の先、同じ市場の玉屋はんに奉公してるんや。時折は顔をのぞかせえな」
「へえ、おおきにさんどす」
弁蔵は自分を覚えているだろうか。いや、忘れるはずがない。七年前、この店に来たばかりのお志乃が頼ることが出来たのは、三歳年長の弁蔵だけだった。そしてごく短い共住みだったとはいえ、彼にとってもお志乃は、胸の裡(うち)を打ち明けられるたった一人の友だったはずだ。
そうでなければお三輪と源左衛門にまつわる数々の逸話、そして枡源に対する怒り哀しみを、あれほど詳細に語りはしなかっただろう。
「それにしても早いもんや。お三輪が亡(の)うなって、もう八年。暇があれば、たまにはうちにも顔をのぞかせてくれや。なにせお前はお三輪の実の弟なんやさかい」
「へえ、ありがとさんどす。そやけど姉の位牌は、こちらにあらしまへんやろ。そないな仏壇しかない家にお邪魔するんは、なるべくご遠慮させていただきますわ」
弁蔵はそう吐き捨てるように言うや、くるりと踵(きびす)を返した。
少し肩を怒らせた歩き方は、あの頃とまったく変わっていない。そして源左衛門に対する頑なな態度も、子ども時分とそっくりそのままだ。いや、むしろ長い年月を経て、それは彼の中で一層激しい憎悪に変じているようにお志乃の目には映った。
「やれやれ、あいつは本当に昔のままやなあ。あれで玉屋はんでうまくやってるんやろか」
源左衛門の呟きに応じるかの如く、土蔵の屋根で鶯(うぐいす)がひどく巧みな囀(さえずり)声を上げた。
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