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第153回直木賞候補作(抄録)<br />澤田瞳子『若冲』(文藝春秋)

第153回直木賞候補作(抄録)
澤田瞳子『若冲』(文藝春秋)

澤田 瞳子

出典 : #オール讀物
ジャンル : #歴史・時代小説

    二

 西魚屋町・中魚屋町・貝屋町(かいやちょう)・帯屋町の四町から成る錦高倉青物市場は、今から百二十年ほど前、寛永年中に公許を得た立売市場である。

 京の青物市場にはこの他に不動堂・問屋町・中堂寺の三つがあるが、これらは仲買人のみを取引先とする問屋市場。それに対して錦魚市場に隣接する錦高倉市場は、店頭での小売りも行う開かれた市として、京の人々に親しまれていた。

 当代で四代を数える枡源は、時に中魚屋町の町役に任ぜられもする老舗。出入りの百姓は三十人を超え、奉公人の数も市場で一、二を争うほど多い。

 だがお志乃が知る限り、この店に来てから今まで、枡源の商いはすべてお清と幸之助、新三郎が切り盛りし、市場の寄合にも弟たちが交替で顔を出す有様。源左衛門が自室を出るのは、せいぜい帯屋町に構えた別宅に行くか、月に二、三度、昵懇(じっこんの)相国寺慈雲院(しょうこくじじうんいん)院主を訪ねる時ぐらいであった。

「源左衛門は今日も、相国寺さんかいな。うちの宗旨は知恩院(ちおんいん)さん(浄土宗)やのに困ったこっちゃ」

 奉公人たちを差配し、毎日朝から晩まで店先に立つお清は、長男の態度に眉をひそめるものの、彼に直に小言をぶつけることはない。弟たちとて、それは同じであった。

「島原で散財したり、賭け事に入れあげられることを思えば、顔料屋(絵具屋)への払いぐらい大したもんやない。わしやお前も、謡(うたい)の稽古にはそこそこ銭を使うてるしな。そやけどこうも商売を疎(おろそ)かにされてては、外聞が悪うてかなんなあ。明日こそは、いや明後日こそは店に出てくれると思うてるうちに、とうとうここまで来てしもうたがな」

「それもこれも全て、お三輪はんが亡くなってから。それより先かて、確かに絵にうつつを抜かしてはりましたけど、たまには店を手伝うてくれはりましたもんなあ」

「お三輪はんの死で、それがなにもかもわや(台無し)になってしもうた。こんなんやったら、無理やり嫁取りなんかさせんかったらよかったわい」

 一昨日、幸之助と新三郎は昼餉の膳をはさみながら、ぼそぼそとそんなことを話しあっていた。

「最近兄(あに)さんは、慈雲院の大典(だいてん)さまとかいうお坊さまと昵懇やとか。店を捨て、坊主にでもならはるつもりやろか」

「それやったらそれで、いっそすっきりするんやけどなあ。市場の寄合に行くたび、皆の衆から呆れた目を向けられるんはいっつもわしらやさかい」

 腹立たしげな幸之助に、新三郎が「勘ぐり過ぎかもしれまへんけど」と辺りを憚(はばか)るように声を低めた。

「お三輪はんが亡くなって丸八年。兄さんはひょっとしたらほんまに、出家を考えてはるんかもしれまへんで。ああやって絵ばっかり描いてるんも、坊主になった後の身すぎ世すぎを思うてやないですやろか」

「そしたら兄さんがいきなり、町役や親類を集めてくれと言い出さはったんは、そのためやろか。わしかお前に家督を譲って隠居しようと、思い立たはったとか――」

 そこまで言って、二人は申し合わせたように箸を置き、給仕をしていたお志乃を振り返った。

「お志乃、お前なんか聞いてへんか」

「そうや、お前、昨日も兄さんと一緒に、慈雲院さまへ伺(うかご)うたんやろ。そのときになにか、店の話は出んかったか」

 幸之助は三十七歳、新三郎は三十歳。父親似と言われる源左衛門やお志乃と異なり、どちらもお清に瓜二つの、猪首に丸顔。畳みかけるような口調といい、どっしりした肉づきといい、どこから見てもやりての商人然とした風貌であった。

 通常、商家の二男や三男は養子に行くか、暖簾分けをして別家を立てる。しかし肝心の源左衛門のせいで半端に店を背負わされている彼らは、いまだ嫁取りも出来ぬまま、枡源に飼い殺しの身の上であった。 

冒頭部分を抜粋

 

澤田瞳子(さわだとうこ)

1977年京都府京都市生まれ。2002年同志社大学大学院文学研究科博士課程前期修了。10年『孤鷹の天』でデビュー。

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