はじめて京塚昌子さんという女優に出会ったのは、彼女が新派の女優さんとして舞台に出ている頃であったと思う。すらりとした体つきで、よく透る声はメリハリがきいて、決して出しゃばらないのに存在感があるのに与えられるのは脇役が多かった。
当時、劇団を背負って立っている女王は水谷八重子であり、男優には伊志井寛、大矢市次郎といった名優が並んでいた。その中で京塚さんは常にひかえめで、実際の年齢よりも老けてみえた。それで思い出したことだが、後年、「肝っ玉かあさん」のテレビドラマで主演者と脚本家という間柄で親しくつき合っていた頃に、なにかでおたがいの年齢の話になり、京塚さんから「あなたは私のことを余っ程、年長者だと思っているんですね」と叱られたことがあった。ちなみに、彼女の干支は午、私は二歳しか違わない申年であった。
念のため書いておくが、京塚さんの脇役はそんじょそこらの脇役ではなかった。するべき芝居を完全にやりとげていて、決して主役を食うことはない。つまり、邪魔をしない。むしろ、さりげなく主役を支えている。その上、そのことを観客には気づかせない心くばりをしている。相手役にとってこんな便利重宝で有難い役者は滅多に居ない。
けれども、京塚さんにとっては嬉しくない現実であろう。俳優ならば思う存分、主役で活躍したい。主役として舞台を盛り上げたいのが本音というもの。それが、新派の舞台では不可能であった。
時代は京塚さんに味方をした。
テレビが急速に普及し、テレビドラマが人気を得た。
主役は必ずしも典型的な美男美女でなくてよい。
むしろ、一般の視聴者にとって身近かな親しみやすい人物のほうが人気を集めた。但し、確かな演技力がなくては困る。
テレビドラマ、「肝っ玉かあさん」は京塚昌子という女優があって始めて誕生した。作者の私がそういっているのだから間違いはない。
きっかけは、私の直木賞受賞作の「鏨師」のテレビドラマ化に、プロデューサーの石井ふく子さんが主人公に、新派の名優、伊志井寛さんを起用し、その女房役として京塚昌子さんをキャスティングしたのに始まる。作者はすっかり、お二人のファンになり、以来、石井さんの注文に応じて東芝日曜劇場などのテレビドラマをせっせと書いた。
京塚さんを主役にして「肝っ玉かあさん」という題名のテレビドラマも石井さんが企画し、依頼を受けて脚本を私が書いた。
題名の「肝っ玉かあさん」は石井さんの発案で、私は今一つの感じではあったが、結局、石井さんのアイディアがマスコミにも受けて「テレビドラマ・肝っ玉かあさん」はTBS系で一九六八年から一九七二年まで、足掛け五年、通算、放送回数百十七回で終了した。
「肝っ玉かあさん」のおかげで京塚さんと今まで以上に親しくなり、彼女が競馬のファンで知人に頼まれて馬主となり、持ち馬の名前を「マサコチャン」とつけたが一向に芽が出ず、結局、障害物競走とやらに出したら一着になったとかいう自慢話を聞かされたりしたのも、今、思うと、なつかしくてたまらなくなる。