それゆえ、この本の主人公はみな、私自身と輪が重なりあう人々である。私はその輪の重なる部分の色合いから想像して、彼ら彼女らの生涯を、たぐりよせたわけである。
それからもう一つ。
そういう「歴史上の人物」とのかかわり方は、いうなら、たいへん女性的で、情緒的なかかわり方である。
私は、歴史や、歴史上の人物について、単に事実としてのかかわり方は、昔から出来なかった。
昔の英雄や王者たちを自分の人生と交叉させ、内なるものへとりこんでしまう癖があった。それは今思うに、戦前の歴史教育、それも庶民的な日常性の中での、おのずからなる教育のせいだった。私たちが子供のころは、
「牛若はんが大きィなって、義経にならはったんや」
「太閤はんは草履取りから身ィ起して天下とらはったんや。ほんで大坂城に住んでやはった」
「あんた、曾我の十郎お好きか、ワタイは弟の五郎はんや。五郎はんは勇ましゅうて男らしゅうて、ええのや」
などというおとなたちの会話や、子供へ語り聞かせる物語のうちに、日本人の歴史が肌に沁みついたのだ。さらには、講談本や時代小説のたぐいで、子供たちは、遠いはるかな、関係もない星の住人のような、「歴史上の人物」に馴染む。──かくて豊太閤は曾祖父のごとく、忠臣蔵の大石内蔵助は大伯父のごとき親近感をもって長じてゆくのであった。
そういう湿潤的な歴史とのかかわり方を、終戦後、多くの人はいとわしく思うようになり、いったん、たちきって、割り切った歴史とのかかわり方を採用するようになった。
しかし、戦後三十年たってみれば、若者は日本の歴史や、古往の人物について、全くなんの愛着も関心も持たないではないか。
彼らにあっては母国の歴史は、教科書の中の無味乾燥で煩瑣(はんさ)な、受験用知識にすぎないのだ。私は、それらをみて胸が痛む。
古い代(よ)に生きて戦い、恋し、苦しみ、死んだ愛すべき人々が、いまの若者たちの心になんの感動をおこすことなく、打ち忘れられ、かかわりをもたず、歴史に埋没してゆくのを悲しむ。
受験用知識の、かわいた記号のきれっぱしとなった人々を惜しむ。──
私のささやかな物語の中の、(ほんの一筆がきであるが)主人公が若い人たちの人生となにかかかわりをもち、それにひかれて、主人公たちが生きた時代や、他の時代の歴史へと、興味をつないでいってもらえれば──私としては望外のよろこびである。
参考書は、次のものに拠った。次頁の本は、これを書くためだけでなく、日頃から大いに親昵(しんじつ)し、啓蒙されており、この機会に、著者の先生方に心からお礼申上げたい。
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