裏手にぽつんと首を伸ばしている水道の蛇口をひねると、水色のホースの先から柔らかい水の曲線があふれ出す。はじめは生ぬるい水を手や顔にあて、前屈みになって脇の下も洗う。オレンジ色のタンクトップの脇が少し濡れたが気にしない。
蛇口を閉めてタオルで体を拭き、紙パックに口をつけてジュースを一気に流し込んだ。サングラスをかけ直して顔をあげると、遠くに映画館の看板が見えた。マチルダは少し悩んだが、リュックサックを背負って自転車にまたがり、陽炎にゆらぐ看板を背にし、他の場所の探索に出かけた。
だが、どこもかしこも遊びに来た地元の人間や観光客でごった返し、ゲームセンターや新しくできたショッピング・モールも、色あせて見えてしまう。入口前でぼんやりしていると、自動ドアを出入りする人々の肩がぶつかり、もう四十歳になるというのに、マチルダの心は不安と寄る辺なさで震えた。
休みをもらったけれど、もう工房に戻って仕事をしようか。しかしついこの間までかかりきりだったクリーチャーは完成して、撮影スタジオに運び込まれるのを待つばかりだった。後は人形師と俳優、メインで動いている造形スタジオの面々がしっかりと進めてくれるだろう。特に問題がなければ、今のマチルダにはやることがない。何しろベンジーが気を回して、依頼を受けた仕事はみな他のスタッフに割り振ってしまったのだ。
ここ一ヶ月間、ほとんど気力が湧かず、手を止めてぼうっとしてしまいがちなのは、思い入れのあるプロジェクトが終わってしまったせいもある。少なくとも工房のアシスタントや仕事仲間はそうだと信じているようだ。だが本当の理由は別なのだと、マチルダはベンジーにも言えなかった。
気温はますます上がり、マチルダの鳥の巣のような癖毛は、熱した煉瓦と同じく、触ると火傷しそうだ。しかしまだ太陽が高いところにあるうちに帰ったら、きっとベンジーに叱られるだろう。
ベンジーには私の気持ちがわからない。マチルダはため息をついた。
九年前もそうだった。亡くなったリズ・ムーアの話をしても、ベンジーは肩をすくめるばかりで、まともに取り合ってくれなかった。
「名前がスタッフロールに載らない? そんなの仕方がないことだって、君もよくわかってるじゃないか」
その時、ベンジーは工房から自宅に帰るところで、まだ居残っているマチルダに向かって笑ったが、顔を上げたマチルダがまったくの無表情だったので、取り繕うように咳払いをした。
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