前回までのあらすじ
第二次世界大戦の勝利に沸くアメリカで生まれたマチルダは、ハリウッドで働く父の友人ロニーの導きもあり、映画に夢中になる。しかし時代は共産主義の粛清へと向かい、アカ狩りの嵐が吹き荒れる映画業界の片隅で、ロニーは死を選ぶに至る。それをきっかけに両親はマチルダに映画に関わることを禁止し、反発した彼女は家を出てNYへと向かう。やがて造形師として修業を積んだマチルダはロスへと移り住み、SFXの工房で働き始める。それから十年、仕事は軌道に乗っていたが、一方で、次世代技術であるコンピュータ・グラフィクスへの恐れは拭い難くマチルダの心に巣食い、影を落としていた。
九 マチルダ、一九八六年八月十八日
雲ひとつない、真っ青な夏の空の下、マチルダは慣れない自転車を漕いで、ロサンゼルスの海沿いの道を走っていた。赤い運動用のマウンテンバイクは、ちょうど隣家の住人が引っ越すと言うので、譲ってもらった。もしベンジーに見つかったらきっと「運動嫌いのマティが珍しい」と笑うだろうが、四十歳の誕生日を迎える前から少し体が重くなり、運動するいい機会だと思った。それ以上に今は、仕事以外の何かに集中したいという気持ちもあった。
太陽がさんさんと照りつける広大な海、椰子の木の下には、ヘアバンドをつけたランナーや、虹色の海パンを穿いたサーファーが大勢行き交っているが、道幅が広いので邪魔されることなくすいすい進める。
仕事もこうだったらいいのに。そんな思いがマチルダの脳裏をよぎり、慌てて首を振った。今は自転車に集中しなければ。
五年前、マチルダはベンジーと工房を立ち上げて、それなりに上手くやっている。しかしいつだって、スタッフロールに現れる名前はベンジーの名前なのだ。依頼が来るのも最初はベンジャミン・モーガン宛で、仕事はそこから振り分けになる。作っても作っても、どんなに丹精込めても、マチルダ・セジウィックは知られざる名前のままだ。
この仕事をはじめた頃は、マチルダもそれが当たり前のことだと思っていた。しかし九年前、あるスタッフロールを観てから、心がざわざわと騒いで止まなくなった。
リズ・ムーアの名前が『スター・ウォーズ』の最後に流れゆくスタッフロールの、どこにも見当たらなかったのだ。
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