私はムルソー以外の白ワインを飲むと、ムルソーからの「距離」でそのワインの味を判断、記憶するようになっていたのだ。この白ワインの味と香りはムルソーからこちらの方向にこれくらい離れている。あの白ワインはあちらの方向にあれくらい離れていた、と。
つまり、私にとってムルソーは、白ワインという酒のフィールドの一丁目一番地に位置するものになっていたのだ。
今回、山本周五郎の短編の名品を集めてアンソロジーを編むことになり、三百編にも達しようかという膨大な作品群を読み返しながら、私は自分が無意識のうちにそれと似たようなことをしているのに気がついた。
山本周五郎は女性を描くのが極めて上手な小説家である。当然、短編にも魅力的な女性たちが多く登場してくる。私はその女性たちを、あるひとりの女性を軸にして、彼女との距離によって判断、記憶していたのだ。私が白ワインの味をムルソーからの距離で判断、記憶していったように。
あるひとりの女性──それは「松の花」のやすだった。
やすが出てくる「松の花」は、戦前に書かれた『日本婦道記』の中の一編で、単行本ではその冒頭に置かれている作品である。『日本婦道記』は山本周五郎が世に認知されるきっかけとなった作品であり、直木賞に推されたものの受賞を断ったということでも有名になった作品である。
だが、私が、「松の花」のやすを、いわば山本周五郎の作品世界の一丁目一番地のひととするようになったのは、最初の代表作ともいうべき『日本婦道記』の、その最初に置かれた物語に出てくる女性だからというだけが理由ではなかった。
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