「あだこ」
若い武士である小林半三郎が婚約者に裏切られ、腑抜けたような日々を送っている。金も尽き、雇い人に去られ、あとは餓死するばかりかと自嘲していると、そこに、下女として雇ってくれという若い娘が現れ、強引に居着いてしまう。「あだこ」と呼んでくれという娘は、いっさいの金を使わず、魔法のように米や味噌や酒を屋敷に運び入れる……。
こうしてその御伽噺のような物語は始まる。
半三郎を絶望させてしまう裏切りをする婚約者は、少女時代に、彼の眼の前で、一枚一枚着物を脱いで裸身を見せつけるようなことをしたという。この江戸時代に、大身の武家の娘が、そのような振る舞いをすることがありうるだろうかという疑問は残る。しかし、その鮮烈な経験がなければ、半三郎が彼女の裏切りに、そこまでの痛手を受けることもなかっただろうことも確かなのだ。
巧みなのは、あだこがどのように米や酒を手に入れていたのかが半三郎にもわかる瞬間の描き方だ。そこから物語は一気にラストに向かって動き出す。そして、そのラストは幸福感に満ちた笑いと共に終わるのだ。
物語の本筋とはあまり関係がないが、あだこが故郷の津軽から江戸まで出てくることになる過去を半三郎に話すところで、仙台からは石巻で船に乗ってきたと述べるところがある。江戸時代にそのような長距離の移動が簡単にできたのかと不思議に思うかもしれないが、実際、当時も、かなり簡単に船による移動ができたらしい。
江戸時代の庶民の旅日記として知られている『筆満可勢』の主人公である芸人の富本繁太夫は、こうした船の一隻に乗って江戸から東北へ、具体的には浦賀から石巻へ、一種の出稼ぎに出ているくらいなのだ。江戸時代も、思いのほか人々は自由に移動していたらしい。