奥さんの体の具合がよくないと言っていた古尾野先生だったが、退院させて施設に預け、小康状態を保っているので出てきたという。バッグの中から大事そうに取り出したのは、文庫サイズの額に入った喜和子さんの写真だった。わたしが知り合ったころよりも、少し若いくらいの年齢と思われ、あの短髪も、白髪にまだいくらか黒が交じっていて、ちょっと上を向いてにこやかに笑っていた。
「いいなあ。いつ撮ったんですか」
たずねると、古尾野先生は、いつだったかなあと目を細めて、
「あれだ。みんな使い捨てのカメラ使ってたころだよ」
と、言った。二人が恋人同士だった時期を考えると、九十年代の話になるのだろう。そういえば、フラッシュのついたものまで発売されて、観光地にカメラを持って行かなくなり、小学生から大人まで、誰もがあれを持っていたころがあった。デジタルカメラやカメラつき携帯電話に切り替わる少し前のことだ。
「あの人とはどこかへ行ったりしなかったんだ。いつだって、上野界隈でしか会わなかったよ。旅行に誘ったこともあったんだが、とくに行きたくはないと言ってたな。こっちは学会で地方へ行くときなんかなら、喜和ちゃんのぶんのアゴアシだけへそくりで出してさ、悪くない温泉旅館にでも泊れないかなと思ったりするわけだ。あのころはまだ、そう、こっちも現役だったからね」
学会出張にかこつけてなら、奥さんにもバレずに浮気旅行ができたはずなのにという話を、古尾野先生はちっとも悪びれないどころか、何かとても大切な思い出めいた口調で話し、いとおしそうに小さな額の中の喜和子さんを人差し指でちょっとつっついて、
「だからこれも上野の公園だよ。二人で動物園に行ったときだ。あの人、動物園が好きだったんだよ。何回かいっしょに行ったね。動物なんかは、なんでもいいんだ。ただ、天気のいい日に出かけて、ぼーっと見てるのが好きだったんだ。トラとかライオンとかさ。キリンとかカバとかね」
と言うのだった。
「いつだったかなあ、喜和ちゃんが、得意の混乱に陥って、だってあれでしょう、逃げ出した黒ヒョウは図書館に入っちゃってたいへんだったんでしょうと言い出してさ」
「逃げ出した黒ヒョウ?」
「うん。あんたくらいの年だと知らないかね。昭和十一年の三大事件といえば、一に二・二六、二に阿部定、そして三番目が黒ヒョウ事件といってね、上野動物園から黒ヒョウが逃げ出した事件があったわけさ」
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