そして、江戸のような大都市であっても、子供が攫(さら)われるのはきっと夕刻で、「悪い刻限」の記憶は薄れていないのである。伊兵衛という狐は、江戸の町中に出現する空白の時を利用しようとした。
伊兵衛と共に、作者である藤沢のしたたかな目が働いているというべきだろう。押し込みは、ほぼ伊兵衛の思い通りに達成されるのである。しかし、これが成功といえるかどうか、その後の経緯については、ここでは書かないでおくことにする。
それにしても、この犯罪小説の主人公は誰と考えたらいいのだろうか。「狐」といえるのはただひとり、四人の素人を束ねた伊兵衛であるが、この男は読者がわずかながらでも心を寄せるようには描かれていないのである。たんなる悪の源にすぎない。
では、悪の源を摘発しようとする奉行所の同心新関某(なにがし)はどうか。この捜索者にも傍役の面影しかない。
私は、やはり最初と最後に語られる佐之助を考えたい。他の素人三人が、それぞれに不運に見舞われる。そして三人とはろくに言葉をかわしたこともないのに、彼らの不運の人生に好意をいだき、「間違いなく仲間だ」と思う。そういう佐之助の存在に、私は読後のカタルシス(浄化作用)を感じた。佐之助は、おくみという女に頼って、これからは世間の表に出て生きようと決意する。
藤沢周平のハードボイルド的小説といえば、人がすぐ想起するのは『消えた女』をはじめとする「彫師伊之助捕物覚え」の三部作シリーズだろう(『漆黒の霧の中で』『ささやく河』とつづく)。元岡っ引の彫師伊之助が主人公で、彼はどう勧められてもふたたび十手を持とうとはせず、素手のまま捕物事件の探索者になる。その点では、探索者である私立探偵が語り手であるアメリカのハードボイルド小説の江戸版なのだった。
ところが『闇の歯車』の文体は彫師伊之助シリーズに近いけれど、物語の仕立てがまったく違う。犯罪小説ではあるけれど、犯罪の扱い方が、市井に生きる四人の人生の側からなのである。物語の構成がわかりやす過ぎるほど明からさまなのに、四人の人生それぞれの陰翳の深さにしたがって、きわめて面白い。これは、作家の手腕のみごとさというしかない。藤沢作品のなかでも特別なもの、という感懐が深い。
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