書評

いつもの“藤沢周平”と違う、文体と骨組。ハードボイルド調の傑作犯罪小説

文: 湯川 豊 (文芸評論家)

『闇の歯車』(藤沢周平 著)

『闇の歯車』(藤沢周平 著)

 すなわちこれは江戸の町を舞台にした、ハードボイルド調の犯罪小説。いつもの藤沢周平とは違う、それにふさわしい工夫をこらした文体と小説の骨組がある。私たち読者は、そんなふうに思いながら有無をいわせぬストーリーの展開に引きずられてゆくのである。

 さらに同じような手法で、三人の男が紹介される。いや、紹介される、という言葉は適当ではない。男たちの担っている不運の人生の、それぞれの場面に私たちは連れこまれるのである。

 伊黒清十郎は、重い病いを患っている妻をもつ浪人。道場の代稽古などをして生活の資を得ている生真面目な男だが、いかなるときも病妻の苦しみが忘れられない。妻を看(み)ている医者に、酒を飲みに行く余裕があるなら溜っている治療代を払えと嫌味をいわれても、「おかめ」という小さな居酒屋で気持をまぎらわすことを止められない。

 医者がさらにいうには、ご新造の労咳(ろうがい)はなおりにくいところまで進んでいる。薬を飲むより、海辺の村へでも連れていって養生させるほうがいいのではないか。しかし伊黒にそんな金はない。静江という人の妻と相思相愛になり、脱藩して二人で江戸の町中に移り住んだ。明日をも知れぬ日々を生きている。

 弥十は、白髪が目立つ年寄り。元建具職だが、三十年も前に博奕(ばくち)のからんだ喧嘩で人を刺し、江戸払いになった。五年前に江戸に帰ってきて、娘夫婦の家に住んでいる厄介者。もうひと旗あげたいと思いつつなす術(すべ)なく、居酒屋「おかめ」で飲んだくれ、娘夫婦を困らせている。

 仙太郎は、夜具を商っている兵庫屋の若旦那。魅力ある許嫁(いいなずけ)がいるのだが、三つ年上の料理屋の女中と深い仲になっている。おきぬという、美貌で淫蕩なその年増女から逃れられず、進退きわまっている。ここでの男女の描写が濃密で凄絶。「別れるなんて言ったら、殺す」という女の科白(せりふ)を背負って、仙太郎はこれまた「おかめ」の看板までいる客なのだ。


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