さて、伊兵衛は夜遅くに四人を「おかめ」に集めて、押し込み先を打ち明ける。繰綿(くりわた)問屋である近江屋で、そこには組合が幕府に納める冥加金が六、七百両あるという。そして主人をおどして金をとるのは自分がやるといい、四人の役割をそれぞれに指示する。じつにかんたんで遊んでるうちに金を手にするようなものだ、と豪語する。
伊兵衛のもう一つの指示は、押し込みの時刻で、日暮れどきにやるのだという。それに疑問を呈した佐之助に向って、いう。そう、押し込みは夕方に限るのです、と。夜はどんな家でもきびしく戸締りをするから、(あなたがたのような)素人(しろうと)衆には無理。それにひきかえ、日が暮れると間もなく、ぱったりと人の姿がとだえる時がある。それが逢魔(おうま)が刻(とき)、それこそが、楽々と押し込みがやれる時間なのだ。
ところで、この小説は一九七六年の「別冊小説現代」新秋号に一挙掲載されたのだが、そのときのタイトルは「狐はたそがれに踊る」というものだった。単行本で『闇の歯車』と改題されたのである。元のタイトルは、押し込みが日暮れどきに行なわれるのを、作家が強く意識していることを示しているともいえるだろう。
たしかに逢魔が刻こそが押し込みに最適という伊兵衛の考えは独創的である。私は民俗学の泰斗(たいと)である柳田國男の『妖怪談義』を思いだした。柳田はそこで語っている。
夕暮れどきを、「たそがれ」とか「かはたれ」というのは、「誰ぞ彼」「彼は誰」を意味する。昔の日本人にとっては、昼が夜に変わる、その変化の時こそが、一種の空白を出現させる「悪い刻限」なのであった。とりわけ地方の田舎ではその恐怖感が強く、夕暮れを逢魔が刻などと呼ぶのはそのせいである。田舎では、自分が他所者(よそもの)つまり恐怖の対象とされないために、「お晩でございます」などとていねいに声をかけあうのを常とした。
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