
取材やインタビューのため、ご自宅に伺うのはたいてい午後一時か二時でしたが、話の途中で、「その床本は……」と言いながら、師匠は立ち上がって、ガラス戸棚の中から目指す床本を取り出しながら、浄瑠璃を口ずさむことがおありでした。
最初は探されている床本の浄瑠璃かと思っていましたが、決まって、次の公演の演目の浄瑠璃の一節で……師匠は午前中にお弟子さんたちにお稽古を付けた浄瑠璃を、ご自分でも繰り返されているのでした。きっと私のインタビューに応えながら、頭の中は浄瑠璃が駆け巡っておいでだったのでしょう。それほどまでに、舞台を退【の】かれてからも、浄瑠璃を頭から片時も離さぬ師匠でいらっしゃいました。
いまだ大きな父を失った悲しみと痛みを感じていますが、願わくば、この世の軛【くびき】から解き放たれた師匠が、今頃は、文楽に入門された当時の青年のお姿に還【かえ】られて、足取りも軽く――向こう側で待っておられた師匠方・先輩方に温かく迎え入れられ、厳しくも、楽しい浄瑠璃のお稽古に励んでおられんことを――。
きっとその輪の中には、義太夫節の始祖・竹本義太夫師もおられるはずです。
平成三十年六月一日
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