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【冒頭立ち読み】『億男』#4

文: 川村 元気

『億男』(川村元気 著)

 青と緑の景色が、次第に灰色になっていく。電車に揺られ三十分が過ぎると、高層ビルが陽の光を遮り、断片的な光を車内に届けていた。レンガで覆われた都心の駅で降り、長い歩道を歩く。アーケードの先にある石畳の通りを抜けると、フランス邸宅風の高級レストランが姿を現した。漆黒の大きなドアに、磨かれた大理石の床。一男がたどたどしく予約した名前を告げると、お連れ様がお越しになっていますと、タキシードに身を包んだ長身の店員が微笑(ほほえ)んだ。

 店の中に入ると、甘いバターの香りがした。落ち着いた薄紫色の内装でまとめられた店内には、テーブルが十五ほど。質の良さそうな生地で仕立てられたスーツやワンピースで着飾った客が、囁(ささや)き合うようにワインやシャンパンのグラスを傾けていた。そのなかに少女の姿を認めて、一男は思わず笑みを浮かべる。

「まどか、待たせてごめん」

 一男は足早にテーブルに近づき、背の高い椅子に座った。まどかは赤いリュックサックを背負ったままで、床に届かないその足を揺らしている。

「遅いよお父さん。あと三分待っても来なかったら、帰ろうと思ってたとこ」

 まどかは母親似の薄茶色の目で、一男を睨む。多くの父親がそうであるように「なかなかの美人だ」と思っている。今日は、九歳の誕生日。まどかにひもじさを感じさせたくなかった一男は、奮発して高級フレンチでランチを予約した。コースは四千円、ふたりで八千円。一男が丸めているパン八十個分の値段だ。かつてマリー・アントワネットは貧困にあえぐ民衆に対して「パンがなければケーキを食べればいい」と言ったそうだが、食事の価値ほど分かりにくいものはない。一男がメニューを眺めていると「お飲み物はどうされますか?」と長身の店員がやってきて言った。



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億男川村元気

定価:本体680円+税発売日:2018年03月09日