弟が、妻とふたりの子どもを残して突然消えたのは二年前の大晦日(おおみそか)だった。悪いニュースには、さらに悪いニュースがつきもので、弟には三千万円の借金まであった。そのことを知った一男は、借金を肩代わりした。
お金の問題が、家族のバランスを大きく崩した。いままでやりくりしてきた妻との価値観の違いが、借金をあいだに挟み、次々と露呈した。半年後、妻はひとり娘を連れて家を出て行った。彼女は百貨店で働いており、ある程度の収入があった。それから一年半にわたる別居生活が続いている。
一男は借金返済のために昼は図書館司書として働き、夜はパン工場のベルトコンベアの前に立つ。合わせて月に四十万円弱の収入。妻と娘、そして自分の生活費以外の二十万円を借金返済に充(あ)てる。利子も合わせての完済は、三十年以上先になる。
借金生活が始まってから、一男は取り憑かれたようにお金にまつわる本を読み漁(あさ)った。苦境から抜け出す方法を、図書館から見つけようとした。哲学者、神学者、経済学者。投資家、映画監督、詩人。あまたの偉人や大富豪が、お金にまつわる名言を残していた。そのいずれもが示唆(しさ)に富んでいたが、彼らの人生を調べてみると、例外なく皆がお金に振り回されていた。どんなに賢い人間でも、それをコントロールすることはできない。そのことに気づいた一男は、目の前のすべてを労働で埋めることにした。そうすれば、お金に対する恐怖と欲望から逃れられるような気がしていた。もっと効率のよい稼ぎ方があるだろうにと、友人たちに助言された。けれど、この昼も夜もない生活が、降り掛かった悲劇を紛らわせてくれていた。
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